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『学び合い』が『』と表現されるワケ

『学び合い』とは、上越教育大学大学院の西川純教授が提唱する教育理論、教育実践です(この言い方は私がそう呼んでるだけです)

 

『学び合い』に『』(二重カギ括弧)が着くのは言葉通りの「学び合い」と区別するためにだと考えています。

 

『学び合い』は2つの観と1つの願いで構成されているので、おそらく名前自体は「西川純教育理論」でも「西川流アクティブラーニング」でもよかったけれど、シンプルに『学び合い』と名付けたんだろうなと思います。(憶測です)

 

ただ一つ問題があって、『学び合い』の実践において言葉どおりの「学び合い」はあくまでも一部、一場面であって、実際はもっと広いものを意味していると思います。極端な例を言えば、『学び合い』の実践において、教室の中には「学び合っていない」子どももいるし、

必要な時だけ周りと話して、あとはみんな自分の課題に取り組んでいる、なんてこともあります。でもそれらはすべて『学び合い』なんです。

 

こうなると『学び合い』を「学び合い」と捉えている方にとってはいったい何なのか分からなくなります。さらにいえば、今の現状では「学び合い」=「関わり合い」=制限という状態にあるので、「『学び合い』を実践しています」というと毛嫌いされてしまう可能性もあります。

 

『学び合い』は2つの観と1つの願いであるから、『学び合い』と呼ばなくても、それをさす記号は『』でもよいのであって「学び合い」という言葉が邪魔をするくらいなら外したほうがいい。という発想なのではないかな、と思います。

 

実際私も最近は「『』を実践してきました」というつもりで話をするようにして、「学び合う」ことを強調しません。「子どもたちが主体的に学ぶ授業」や「個別最適な学び」などというときもあります。

 

というわけで、私が勝手に考えた『学び合い』が『』と表現されるワケでした。

『学び合い』関係者の方々、どうですかね。