理解したいものしか理解できない
まさに。
— おに先生 (@onisensei024) 2021年11月21日
今の僕に必要な言葉 https://t.co/1vE23YWr5l
人の本質は 「理解したいものしか理解できない」だ。 しかし経験という触媒によって 「理解できないものが理解できている」という瞬間が生まれる。
今の自分にとって、とても重みのある発信だった。
おそらくだけど発信者のfuru-tさんは周りから「理解されなかった」経験があるんだと思う。僕自身は直接会って話したことがあるけど、すごいというか憧れというかそんな気持ちだった。でも、近くにいる方にとっては「異質」だったり「関心を持たれない」のかもしれない。
僕自身も、『学び合い』ベースに教育実践をずっと行ってきたけど、
ほとんど同僚から関心を持たれなかった。
それなりにアピールも、見せる機会も、話す機会も持っていたんだけど、
結局「理解したいものしか理解できない」から、僕がどんな学級経営をしているのか
僕がどんな授業をしているのか、僕が何を目指しているのか、わからなかったんだろうな、と思う。
ICT活用が始まってからも同じで、僕自身が「個別最適な学び」をICT活用で実践、提案をしていったけど、まったく関心を持たれなかった。結局、僕のやっていることは「理解したいもの」ではなかったんだろうな、と思う。
「あいつらはどうせわからないからいいや」と思っているわけではなかった。
経験という触媒によって 「理解できないものが理解できている」という瞬間が生まれる。 この限界と可能性があるから、人は「対話」をするのだと思う。
そう、これは僕自身が『学び合い』に出会い、実践経験を積むことで、理解できていないものを理解できるようになったことに近い。『学び合い』を始める前は、宿題で漢字ノート1ページは当たり前と思っていた。それが数年かけて「漢字ノート1ページって何のためにするの」と思うようになっていったのと同じ。
だから、僕が「理解してほしい」と思う実践が「理解したいもの」でなければ、周りは理解しようとしないけれど、「対話」によって「おにさんがやっていることってそういうことなのね」と理解してくれる可能性はある。ま、相当な時間が必要だろうけど。
とはいえ、今年度の最大の武器は文科省などが発信していることをかなり読み込んだこと。
これを使えば、ひとまず後ろ盾にはなる。あとは、じわじわやっていくしかないな。
ひとまず、身近なつながりから。できれば、動き出したい。