僕が昨年度ずっとこだわっていたのは「ビジョンを持つこと」
しかしそれは、「具体的なビジョンを持ちましょう」ということであって、
「ビジョンを持つこと」そのものを訴えているのではなかった。
そもそも、「ビジョンを持つ」という行為なのか、行動なのかわからないけど、
それそのものが異質で、イメージのしにくいものなのかもしれない。
「ビジョンを持つこと」自体はシンプルで、「具体的なビジョン」が非常に難しい。
今なお、「あいまい」であり、ずっと問い続けていることだ。
それを「ビジョンを持ちました」とされると、「なんだかなあ」と思うのだけど、
まあ仕方ないな、とも思う。
僕にとって「ビジョンを持つこと」は「どんな子どもを育てるべきか、育てたいか」であり、
「育てるべき」を答えるためには、これからの時代を知る必要があるし、その時代に求められることを「だいたい」把握する必要がある。というのも、これからの時代をすべて予測するのは不可能だし、求められることも分かるわけない。
なら何ができるか、といえば今もこれからも普遍的に求められるものを考えればいい、と思っている。それは何か。今この時点で言えることは「自立・自律」と「つながり」だ。
もう少し噛み砕いて言えば、「自分で考えて、自分で決めて、行動できること」
「多様な人と折り合いをつけ、人の力を借り、自分の人生をよりよく生き、社会をよりよくすること」と考えている。
これは決してICTがあろうとなかろうとできることだし、あればあるで可能性も幅も広がると思う。ここのところ、「ICTなんてどうでもいい」と言うのはそういうことで、僕のビジョンの中には、ICTは必須ではない。「あったほうがいい」くらい。もちろん優先順位は高いけど。
補足すると「自分で考えて、決めて、行動できる」人を育てると言ったけど、
まあ、言ってみれば「そんなの当たり前」だ。
誰だって、考えて、決めて、行動している。
が、あくまで僕の経験則だけど、小学校の子どもたちは、どんどんその機会を奪われている。
先生の言われた通りにしてる。
トイレに行くことすら「行っていいですか」と聞くくらい。
「そんなの自分で決めればいいのに」と言うと驚かれる。
だから、ICTを通じて僕がしたいことは、まずは教師が子どもに「委ねる」ことだ。
そして、子ども自身が「決める」ことを増やすことだ。
問題を起こすかもしれないし、言うことを聞かないかもしれない。
そこを乗り越え、子どもの成長を見守っていく、それこそがICTをきっかけにできるのではないか、と考えている。
もっと子どもに委ねていい。
信じて任せれば、面白いことをやってくれる。
「子どもだから」ではなく、ヒトはそういう生き物だ、と思う。
「子どもはすごい」んじゃなくて、ヒトはすごいんだ。
だから、それを生かせばいい。