周りが教えてくれる時代じゃない
他人への評価は的確で冷酷だと感じることがある。
「あの人はーだから、相手にしない方がいいよ」
「ーと思うけど、言っても変わらないから言わない方がいいよ」
「○○さん?放っておけ」
こんな評価を受けている人は、自分がどう評価されているか何も知らない方がいい。
でも、ちょっとしたことを変えればその評価が変わるのに、それを知らないまま、気づかないまま、何年も何年も過ごしているんだと思うと不憫に思う。
例えば、よく悪口を言う人。
普通に付き合っていれば、そんなに悪い人じゃないのに、悪口が多いと付き合いたくなくなる。「あの人、あんなこと言ってるけど、意外といい人だよ」と思われた方がいいに決まっているのに、それができなくて「あの人、いっつも悪口言ってるよ。それ以前に自分のことを見直せばいいのに」なんて思われてしまう。ちょっとしたことの違いなのに、評価が大きく変わってしまう。
時間を守らない
期限を守らない
愚痴が多い
自慢話が多い
こういう人も、あまりいい評価はされず、距離を置かれたり、放置されたりすることがある。
でも、本人は気づいていない。「こんな簡単なことで、この評価を受けるくらいなら、直せばいいのに」と可哀想に思う。
とはいえ、結局は本人が気づかないと変わらない。
パワハラとかモラハラとかが取り出さされて、他人が他人の言動を変えようとすることは
控えるようになった。だから本人が気づくしかない。本人に「気づく能力」があるかどうかがこれから先、重要になるのではないか。
そして、「気づく能力」は
習慣で身につくものなのか。
経験で身につくものなのか。
はっきりとした答えは分からないけれど、
一つ言えることは、多様なつながりを作ることではないか、と思います。
もしかしたら、自分にきっかけを与えてくれるかもしれないし、
気づかせてくれるかもしれない。
自分で気づくか、他人が気づかせてくれるか分からないけど、
同じ場所で変わらぬ人間関係なら、その可能性は少なくなる。
他人の評価がすべてではないけれど、少しでも他人の評価をよくするために
「気づく能力」はつけたほうがいい、ということを感じた日でした。