おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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周りが教えてくれる時代じゃない

他人への評価は的確で冷酷だと感じることがある。

 

「あの人はーだから、相手にしない方がいいよ」

「ーと思うけど、言っても変わらないから言わない方がいいよ」

「○○さん?放っておけ」

 

こんな評価を受けている人は、自分がどう評価されているか何も知らない方がいい。

でも、ちょっとしたことを変えればその評価が変わるのに、それを知らないまま、気づかないまま、何年も何年も過ごしているんだと思うと不憫に思う。

 

例えば、よく悪口を言う人。

普通に付き合っていれば、そんなに悪い人じゃないのに、悪口が多いと付き合いたくなくなる。「あの人、あんなこと言ってるけど、意外といい人だよ」と思われた方がいいに決まっているのに、それができなくて「あの人、いっつも悪口言ってるよ。それ以前に自分のことを見直せばいいのに」なんて思われてしまう。ちょっとしたことの違いなのに、評価が大きく変わってしまう。

 

時間を守らない

期限を守らない

愚痴が多い

自慢話が多い

 

こういう人も、あまりいい評価はされず、距離を置かれたり、放置されたりすることがある。

でも、本人は気づいていない。「こんな簡単なことで、この評価を受けるくらいなら、直せばいいのに」と可哀想に思う。

 

とはいえ、結局は本人が気づかないと変わらない。

パワハラとかモラハラとかが取り出さされて、他人が他人の言動を変えようとすることは

控えるようになった。だから本人が気づくしかない。本人に「気づく能力」があるかどうかがこれから先、重要になるのではないか。

 

そして、「気づく能力」は

習慣で身につくものなのか。

経験で身につくものなのか。

はっきりとした答えは分からないけれど、

一つ言えることは、多様なつながりを作ることではないか、と思います。

もしかしたら、自分にきっかけを与えてくれるかもしれないし、

気づかせてくれるかもしれない。

自分で気づくか、他人が気づかせてくれるか分からないけど、

同じ場所で変わらぬ人間関係なら、その可能性は少なくなる。

 

他人の評価がすべてではないけれど、少しでも他人の評価をよくするために

「気づく能力」はつけたほうがいい、ということを感じた日でした。