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#39 『学び合い』の先へ

『学び合い』の「先」というのは変な言葉かもしれません。

『学び合い』は到達点があるわけではないので、『学び合い』「の」先というのは変です。

 

しかし、私は『学び合い』の先へという言葉をよく使います。

それは『学び合い』が「溶け込んでいる」とか「土台になっている」状態で、指導者自身の実践を広げていく意味です。

 

実際私は、全員達成型の『学び合い』の授業だけでなく、一斉授業やICTを使った授業も行ったり、100マス計算や漢字練習、自学、クラス企画などを行っています。それらはすべて『学び合い』の授業に近くはないですが、『学び合い』の考え方に基づいています。

 

実は『学び合い』の考え方に基づいているというより、溶け込んでいるという方が僕にはしっくりきます。

「自分で考え、自分で選び、自分で決める」

私は子どもたちによくこれを求めますが、『学び合い』で具現化され、その他の教育活動に活かされていった、という捉え方をしています。

 

つまり、私にとっては『学び合い』は学習者主体の教育活動の「入口」でもあるのです。

だから、入口から「先」は自分自身で見つけていく必要があるし、

「土台」の意味で、考え方の前提にもなります。

さらには、全員達成型の『学び合い』の授業をせずに、生徒指導や学習指導を行う今の立場も

「『学び合い』の先」でもあるのです。

 

『学び合い』の先をいく実践者を何人か知っています。

その方々は、『学び合い』がどうのこうの言いません。

ほとんど「当たり前」になっています。

そして、そのレベルの方々は『学び合い』を経由しなくても到達できている方もいます。

 

しかし、『学び合い』の入口を経由せずに、『学び合い』の先を行こうとすれば、頓挫するにきまっています。

なぜなら前提として、指導者がすべて学習者の学びをコントロールできるという前提にたっているからです。

 

私がこの数年、自治体の教科研究に感じているところはそこです。

目指すものはいいけれど、学習者主体という前提ですらないんですよね。

だから、うまくいくはずない。そんな授業見ても何の役にも立たない。

 

 

「生きる意味」とか「幸せ」のような哲学的なものとも少し違う気がします。

 

『学び合い』「の」先というのは、『学び合い』を超えていくような捉えて