学び合いを『学び合い』にする
『学び合い』の授業を見学して、指導助言をしてほしい。
そのようにお願いをうけて、とある学校で授業を参観させてもらうことになりました。その授業は、子ども同士が自由に席を立って教室内を歩き回り、子ども同士が問題の解き方を説明したりする授業でした。側から見ると「『学び合い』の授業」に見えると思います。しかし、私には『学び合い』には思えませんでした。
なぜ『学び合い』に見えないのか。
どうすれば『学び合い』だと言えるのか。
この問いに答えるいい機会になったと思います。
指導助言の際は、授業中の写真を何枚からスクリーンにうつし、
「授業中、このような場面がありました。『学び合い』では〜と考えます」
と解説をしていきました。
使った写真は
①一人の子どもの授業中の様子と変化
②授業をした先生の授業はじめの様子
③授業中、ずっと子どものそばにいた先生の様子
④ネームプレートをはった黒板の前の子どもの様子
⑤授業をした先生の授業のおわりの様子
です。
指導助言で使用したいくつかの場面に「『学び合い』に見えない」要素があり、
「どうすれば『学び合い』と言えるのか」の答えになりそうだと考えました。
以下、項目ごとに説明をしていきます。
『学び合い』に見えない要素①「 子どもの学びまで時間がかかる」
授業が開始して、子どもたちが席を立って学習をするまでに15分間かかりました。決して、授業をした先生を批判したいわけではないですし、あなたの授業は『学び合い』ではない!と言いたいわけではありません。しかし、『学び合い』の授業であれば、授業がはじまってから子どもたちが学習をするまでの時間は短いはずです。
これはつまり「子どもは有能である」という子ども観にいきつきます。子どもを信じて任せることができれば、教師の説明や指示はどんどん削られていくものです。
※『学び合い』の観については過去記事をご覧ください。
あなたの授業は子どもを信じていない!
そういうことを言いたいのではありません。「これは説明したおかないと」「子どもに考える時間を取らないと」という多くの教師が考えることを「削ぐ」かどうかが『学び合い』の実践では重要です。なぜなら教師が話す分だけ、子どもの学習時間が増えるからです。子どもの学習時間を多く確保すればするほど、課題を達成する可能性は高まりますし、救われる子も増えます。「一人も見捨てない」の願いにもつながってくるのです。
『学び合い』に見えない要素② 「教師の願い・語りがない」
授業が開始してから15分くらいのあいだに、授業をしていた先生の「語り」はありませんでした。『学び合い』では目標の提示とともに、子どもたちに対して「こうなってほしい」を語ります。決してそれは特別なことではなくて、おそらく多くの先生が事あるごとに語っていることだと思います。『学び合い』では前回の学習や、最近の教室の様子、行事などに合わせて、子どもたちに語ります。そしてそれが、『学び合い』の学校観だったり、評価・価値づけにつながってくるのです。もしかしたら今回の授業だけ「語り」がなかったのかもしれませんが、私なら参観の授業だからこそ、語ります。
授業中、先生は「あと◯分」という言葉かけだけを行い、全体に対してつぶやきや個々への価値づけは行っていませんでした。これもまた『学び合い』を実践していくことで大事なことです。『学び合い』の授業では「教えることは学ぶこと、聞けることは大事なこと」など、『学び合い』の学校観や教師の願いを子どもたちにジワジワ伝えていきます。
※授業中、どんなことを語ればよいのか、どんな価値づけをしていけばいいか、は「『学び合い』はじめの5冊」の中でも次の本に詳しく書いています。
『学び合い』に見えない要素③ 「子どもたちの動き」
参観した授業では、課題①と課題②があり、それぞれ終わったらネームプレートを置く場所が黒板に設定されていました。この手立ては『学び合い』の授業ではよく見られる「可視化」のテクニックなのですが、何を「可視化」しているかを教師と子どもたちが共通理解している必要があると思います。このネームプレートで「可視化」しているのは「課題の達成状況」です。つまり、教室の中で課題が終わっていない子を探しやすくし、全員達成を目指すためのものです。しかし、教室内の子どもたちの様子を見ていると、そのネームプレートを置くことだけにとどまり、ネームプレートを見て終わっていない子を確認したり、教室内を見渡したりする子はほとんどいませんでした。
これは2つの原因が考えられます。
・課題が難しく、周りに気を配る余裕がなかった。
・ネームプレートの意味を共有しておらず普段から「全員達成」を目指していなかった。
『学び合い』を実践するに限らず、教師が行う教育活動には一つひとつ意味があり、それを説明できる必要があると思います。何のためのネームプレートなのか。なぜ「全員達成をめざすのか」なぜ『学び合い』なのか・・・自分なりに自分の言葉で語る必要があります。「どのように語ればいいか分からない」ということを以前質問されたことがありますが、それは考えるしかないのです。もしあなたの目の前で子どもが泣いていた時、大事な試合に負けてしまった時、子どもたちと別れる時・・・・どれも自分の言葉で語らないといけないし、正解はないですよね。それと同じです。
まとめ
今回、授業参観をさせて頂き、いい経験になったなと思います。それは、自分の考える『学び合い』というものがどういうものか、言語化することができたからです。それと同時に『学び合い』を研究授業等で参観してもらうことの難しさを知りました。私は今まで「子どもたちの様子を見れば、『学び合い』のよさを伝えられる」と信じている部分がありましたが、今回の参観で「そんなに甘いものじゃない」ということがわかりました。
授業を参観している先生たちの様子を見ていましたが、遠くから眺めている方が多くいました。これでは『学び合い』を実践する上で一番大事な「子どもの学び」を見取ることができません。おそらく「子どもたちが自由に話し合っている授業」にしか見えないでしょう。もし、このまま他の先生が真似して取り組めば、間違いなく失敗します。上に書いたように、教師自身が自分の言葉で一つひとつの活動の意味を語る必要があるのです。つまり『学び合い』を実践することは、簡単なことではないのです。
だからこそ私は、授業をしてくださった先生に申し訳ない気持ちを持ちながらも、この授業は
学び合いであり、『学び合い』ではない。どうすれば『学び合い』になるのかという点を重視して、話をしました。
途中、先生たちが参観している様子を見せながら「子どもたちが分かるまでには、様々な過程がある」ということを伝えました。『学び合い』を実践する上で「子どもの学び」に気づくことは、大きな財産になります。『学び合い』の目的は子どもたち一人ひとりがより良く学び、学んだことを生かしながら幸せを見つけていくことだと私は考えるからです。
どれくらいの方が私の話に共感し、今後の実践にいかしてくれるかわかりません。校内で『学び合い』を実践していることに敬意を持つとともに、私自身も指導助言の技術を身に付けなければいけないなと感じました。