おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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いつもそこにあって、いまはないもの

年度末が近づいてきました。

 

勤務校では、学級懇談会が行われました。

私は学級担任ではないので、懇談会はありません。

懇談会の準備の手伝いと、懇談会を終えた先生たちに慰労が仕事で、

あとは、雑用をひたすらやっていました。

いつもだったら、「1年間ありがとうございました」の語りとビデオを放映したりしていたのに、今年はない。端からみていると、やっぱり懇談会ってすごく大変だなあと思うけど、ないならないで、少し寂しい。

 

間も無く学級じまいの時期です。

最後に思い出を作ったり、学習のまとめをしたり、次年度の引継ぎをしたり・・・

気持ちもやることも慌ただしい時期ですが、なんだかんだ、最後は大事にしようとしていました。でも、今年はない。成績づけも目処がつき、最後の授業の日程もだいたい決まりました。

あとは、雑用をするだけ。やっぱり学級担任は大変だなあと思うけど、ないならないで、寂しい。

 

育休にはじまり、休校、夏休み短縮、行事カット、一人一台端末・・・

目まぐるしい一年だったし、それなりに役割を果たしてきたと思うけど、なんだか寂しい。

 

ずっと使っていた準備室を片付けはじめました。

水槽を掃除して、メダカを入れる準備ができました。

引継ぎの資料を作ることが今一番の仕事。

そこに子どもの姿はない。

 

いつもそこにあって、いまはないもの。

そんな一年が終ろうとしています。

 

 

 

暴言、それから

 

f-manabiai.hatenablog.com

 

いまだにひきずっている「暴言」

 

少し訂正しておきます。

 

ICTは「時間と場所の制約」をなくす、素敵なツールです。

 

私は、平日なるべく早く退勤して、家に帰ります。

しかし仕事が終わっているわけではないので、家で仕事をします。以前は、データの持ち帰りができず、学校に残るか、休日に行くしかありませんでしたが、今は、クラウド保存できるので、土日や平日の夜も問題なく仕事ができます。

 

土日や、平日の夜に、子どもたちのスライドを見て、アドバイスを書いたり、評価をしたりしていると、Googleには、同時編集機能があるので、同じタイミングで同じスライドを開くと、子どもが「居る」ことがあります。

 

「あ、こんな時間にやってんだ」

 

と少し心が温まります。たぶん向こうもわかったでしょう。

おそらく、発表会に間に合うように、修正していたんだと思います。

 

今までは、翌日朝、「成果」しか見えてこなかったけど、今は途中経過も見える。

今までは、直接会って話すしかできなかったけど、今はデジタルなやりとりもできる。

 

学ぶことや、課題に取り組むことが「学校」でしかできなかったこと、

「家」でしかできなかったことが、「学校」でも「家」でもできる、というのは

ICTならではだと思います。時間と場所の制約が一気になくなりました。

 

「ICTなんてどうでもいい」f:id:f-manabiai:20210301221738p:plain ではないですね。希望があります。

「何のために」書くのか

 

このTweetに対し

 

・他者に伝える際に必要な文章を構築する力をつけるため

・文章を要約したり、推敲したりする力をつけるため

・自身のことを客観的に見つめるため

・記録として残すため

・教師が評価するため

 

 と回答しました。

その場で考えて思いついたことを書いたまでですから、「こうだ」ということには自信がないですけど、すぐに答えられないことは本物ではないと思うので、後からこの回答を吟味してみようと思いました。

 

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私自身、おそらく新任の時から「作文」には力を入れてきたと思います。

はじめは、一人ひとり添削をしていて、それを待つ子たちがワーワー言って騒ぐ、ということをやってしまっていましたが、最近ではそうならないように工夫しつつ、添削は続けています。なぜそのように続けてきたかというと、

 

「他人が読める文章を書く」ということは、表現力と思考力を鍛えることができると考えるからです。

 

私の経験上、「かしこい」子は、文章が「きれい」だと思います。「きれい」というのは、構成が「見えて」「読みやすい」と考えます。

国語の説明文の学習は、題材を読んで「構成」を学ぶようにできています。中身を丁寧に指導する実践もありますが、さっさと文章の内容から離れて、「骨組み」を学ばないと、時間なくなっちゃうでしょ、といつも思います。

 

まあそれはさておき、そのように文章の構成を学び、自分の作文に生かしていく、これが説明文で学ぶことだと考えますし、教科書もそのように作られていると思います。

 

しかし、「きれい」な文章を書くのは容易ではありません。自分の文章をなんでも見直し、書き直し、考える必要があります。ある意味「タフさ」が必要です。ですから、まずは「書くこと」に対して抵抗感をなくしてから、このような学習を行う方がいい、と思ってもいます。

 

さて、「きれいな」文章を書くには、教師が「何が」「きれい」かを選別できるようにならないといけません。子どもが書いた文章を読んで「よく書けたね」は低学年までです。「ダメ」と一言で突き返せて、それでも分からなければ具体的に教えられるくらいにならないといけないでしょう。個人的なことを言わせてもらえば、それができるようになるためには、子どもの作文をたくさん見る「訓練」を積まないとできないです。

 

幸い僕は、学生時代に文章を書くことに結構苦労したので、新任の頃から作文を見る能力は一通りありました。子どもが書いた作文をパッと読んで、何が足りないか理解できます。おそらく何年か学校の先生していたら、身につく能力だと思います。

 

上にも書いたように、最初は丁寧に読んで解説していましたが、ある時からこの作業の効率の悪さに気づき、「よし」「ダメ」だけ言って、ダメなら返すという方法をとるようにしました。そして、授業の終わりに作文を回収して、ポイントをふせんに書いて、はってわたす、ということをしていました。時間はかかりますが、授業中にワーワーなるよりマシと思っていました。

 

サッと読んで、ポイントを書いてわたす、というのは案外自分も頭を使うので、思考力のトレーニングと思えば、結構できました。いつやっているんですか、と聞かれたら「あいた時間」と答えていました。宿題を見るより、断然大事なことだと思っています。

 

もちろん、ポイントを書いたふせんを貼ったところで、それを見て改善できるのは一部で、

また同じように、ダメとなる作文を書いてくる子がたくさんいます。そのために、

「先生は何がよくて、何がダメなのか」理解できる子がクラスに数名いる、または作る必要があると思います。このような子がクラスにいると、個別に指導をしてくれます。(その前に、学び合うクラスになっていないといけないのですが)

 

次第に、先生が求める「きれいな」文章がどの子も書けるようになる、というのが僕の実践であり、経験です。

 

さて、なぜ「きれいな」文章を書けるようになることを僕は目指すのか。

本当はそこの部分を書かないといけなかったのですが、前置きがずいぶん長くなってしまいました。そう、このように書いていると、頭でっかち、中身なし、なんてことはたくさんあるんですね。だから自分の書いた文章の全体をみわたして、どんな構成になっているかを考え、修正する、という行為が「思考力」につながると思いますし、「これは他人が読んでも言いたいことは伝わるのか」というのは「表現力」だと思います。地味なことですが、この二つの力は、大人になっても使う能力だと思います。手で書こうが、タイピングだろうが同じです。

 

会話のように、後先考えずに表現することもたくさんありますが、

発表のように、全体の構成を考えて話すこともあります。

僕が身につけてほしい能力は、後者です。

 

それ以上に、「頭を使う」という知的な時間は、快感だと思うんですよね、人間だから。

「書けない子もいる」のではなく、「書く気を失わせた」というのが正解なのでは、と思います。私の5歳の息子も、勝手に「書いて」いますよ。これを見る限り、人間は「書いて表現したい」生き物ではないか、と思うんです。

 

 

 

 

Zoomして、clubhouseして。

最近夜は、zoomで話すか、clubhouseで話すか、ということが増えました。

「あ、アウトプットしたい」「この件について話して頭を整理したい」そう思った時に、

話せる相手がちょうどいるというのはありがたいことだなと思います。

一緒に暮らしている妻は、「緑の汁が出る」と言って僕の話を聞きたがらないですからね(笑)そりゃそうだ。

 

 

語らずにはいられない

ある方のブログを読んで、心がグッと締め付けられるようだった。

そうだ、俺は数年前に人前で叫んだんだ。

教育が、学校が、本当に子どもたちにとってよりよいものになることを願って。

 

先日、

「ICTなんてどうでもいい」なんてことを言ったのは、いまだに引きずっていたけど、

なんでこの言葉が出たのか、今になって分かった。

「ICTの前になんとかすべきことがあるでしょ」だ。

 

ICTのキラキラした実践例の裏で、明日をの授業、教室、学校生活を悩んでいる先生、子ども、保護者がたくさんいるはず。そんな方々にとって「ICTなんてどうでもいい」だろう。

 

数年前、自分の力の限界を知った。

改善策は分かっているのに、伝わらないもどかしさを知った。

一年やそっとじゃ、変わらない現実を知ったと同時に、もっと前から積み上げていれば、

こんなことにはならなかっただろうに・・・ということもわかった。

 

『学び合い』には希望がある、というより、

もう『学び合い』しかない、と思っていた。先生や子どもを救うのは。

 

それがあの時の僕の「叫び」だ。

 


Believe Children | Takeshi Onishi | TEDxHakataf:id:f-manabiai:20210225211535p:plain

傲慢なヤツ、僕。

10回目の研修のために、リハーサルを自室でしていると、妻から「最後の研修なら、聞かせてほしい」と言われたので、聞かせました。

 

「え、この熱量で10回も研修してきたの?」
「報酬をもらわないのに、なんでできるの?」
「すごいことやってるの、今更知った」


妻は驚いていました。民間に勤める妻にとっては、理解しがたい部分なのかもしれません。

 

では、なぜ私がこの仕事をやっているかというと、自校のICT活用推進と、後輩たちの成長が、子どもたちと自治体の教育をよりよくすることにつながると確信しているからです。

 

とはいえ、時間をとってもらって研修をするわけですから、責任もプレッシャーもあります。

だから、10日以上前から、どんな研修をするのか考え、ネタを集めてスライドを構成します。準備の時間と考える量はかなりのもんです。

 

そして、

「いつやっているの?」と聞かれたら「空いた時間」ですと答えますし、

「なんでスラスラしゃべれるの?」と聞かれたら「練習しているから」と答えます。

 

「スライドや説明がわかりやすいです」と言われたら

 

そうでしょ!

 

と内心答えます。

だってそうだもん、めーーーちゃ勉強して、自分なりに試行錯誤してきたんだから、この5年くらい。

 

もちろん、自分よりも上はいっぱいいるから、自分がパーフェクトなんて思わないけど、

やっぱり、経験を積んできた分が、今になって生かされたなと思います。

 

プレゼン資料のデザイン図鑑

プレゼン資料のデザイン図鑑

  • 作者:前田 鎌利
  • 発売日: 2019/03/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 この本、かなり参考にしたからね。

というわけで、熱量だけでやっているわけじゃないよ、というのが今回のお話。

 

 

終わったあとに、感想を書いてもらったら「おに先生のおかげで」と書いてあったけど、

 

そうでしょ!

 

とにんまり。ははは、傲慢なヤツですから、僕。

でもまあ、僕を自由にしたこと、僕をおだててその気にさせたことが、何よりの成果。

僕をうまく利用したという意味では、「みなさんのおかげで」でもあると思います。

 

それにしても、いい経験をすることができました。

そして、疲れたー。肩の荷が降りたよ・・・

 

しばらくはゆっくり過ごそ。

そんなこと言いながら、いろいろやってそうだけどね。

 

たていと、よこいと

 

私は、学級でおきる人間関係のトラブルは、子どもたち自身で解決するように、促しています。それは、担任教師で解決しようとするよりも、解決できる可能性が高まりますし、子どもたち自身が「当事者意識」を持つからです。また、子どもたちが周りと「折り合い」をつけることが、大人になる上で必要な力だと思うからです。

 

もちろん中には、子ども同士では解決できない問題や、教師が介入しないといけない問題もあります。「子どもは有能である」というのは「子どもはなんでもできる」というわけではないですからね。子どもにできることもあるけど、子どもにできないこともある。それは大人と同じです。

 

また、子どもによっては「先生が解決してくれる」ことで安心する子もいると思います。それは今までの関わってきた先生たちとの比較でもあるのですが、「先生は冷たい」「先生は話を聞いてくれない」と感じることで、教師への信頼を失ったり、保護者に不信感を与えることにもなります。だから、子どもだけで解決するというのは、慎重にならないといけないです。私も何度も失敗してきました。

 

ある程度、クラスの人間関係が安定してきて、私のことが分かってくると、子どもたちは私にトラブル解決を求めないようになります。以前ある子が「先生に言ったって、「なんとかして」しか言わないよ」と言っているのを聞いて笑ったことがあります。いい意味で頼られていません。私も「よくわかんね〜」なんて誤魔化して、子ども同士で解決することを求めます。

 

そのような関係になってきた時、肝心なことを子どもたちから聞けない、ということもあります。教師の見えないところで、闇が広がっていく・・・なんてこともあります。今でも反省点なのですが、『学び合い』の中で「見とれない」闇が、子どもたちの中に潜んでいることは、よくありました。

 

そんな時にとても有効なのが、「振り返りジャーナル」です。

 

 岩瀬さんのとても有名な実践なのですが、私も何年も続けている実践です。

毎日書いて、毎日回答するのは結構大変なのですが、子どもたちから思わぬ声が聞こえてきますし、深刻な悩みや問題を聞くこともあります。

 

「何か先生に伝えたいことがあったら、伝えていいよ」という道を作っておく意味で、

この「振り返りジャーナル」は欠かせない実践です。

 

『学び合い』だけはうまくいかない、という言葉を最近よく聞きますが、

本当にそう思います。「『学び合い』っていいですよ、すごいですよ」というのは無責任ですね。

 

さて、タイトルの「たていと」「よこいと」

私の認識はこんな感じでしたが、どうなのかな。

『学び合い』と「やりたいこと」

僕は今年度、『学び合い』を実践しているとは思っていません。

 

それはなぜか、ずっとそれを考えてきました。

結局それは、私にとっての『学び合い』は、「関わり」が必要不可欠だということが分かったからです。「関わり」がなければ、私が考える「一人も見捨てない」は成り立たないし、子どもの成長も学びも私が想定する半減、いやほぼない、に等しいと思います。だから私は今年度『学び合い』を実践していない。

 

ただ、おかげで自分が「教師として何をやりたいか」がいつもよりも見えるようになりました。一番分かりやすかったのが、学習の取り組み方。課題を前もって単元まるごとわたし、それを見ながら子どもたちは学習を行う。自分なりに考えたり表現したりする要素があって、

自由度も高い。すなわち「自分で考えて、決めて、行動する」学びです。そして、その中でも

「かしこさ」のある学びを目指してきました。

 

今まで『学び合い』の実践の中でそのような授業を行なってきましたが、「説明をする」という課題を入れ込むことで、より「自分で考える」「かしこさ」が際立っていたと思いますが、今年度は「関わり」ができないので、子ども同士で行なっていたことを、私一人で見ることで、なんとか達成することができていました。子どもたちは自分なりにノートに書いて、まとめて、表現していました。

 

このような実践を

『学び合い』を通じて見出した、自分がやりたいことーーーー①とします。

 

では、次に今年度はできていないけど、

『学び合い』とは関係なく、自分がやりたいことーーーー②

です。

 

・音楽発表会

・運動会

 

この2つです。厳密にいえば、『学び合い』の実践で見出した「どのような子どもに成長していってほしいか」が入ってはきますが、基本的にこの2つに関しては、自分が主導で指導を行います。「俺が目立つからな」と言わんばかりにやってます。

 

最後に、

 

『学び合い』で自分がやりたいことーーーー③

最近になって、はっきりしたのですが、僕は自分に関わるすべての子が成長してほしいし、楽しい学校生活を送ってほしいし、幸せな将来を送ってほしい。こう書くと、そう思えない自分の存在も知っているので、少ししんどくなるのですが、ひとまずそう書いておきます。

で、『学び合い』で自分がやりたいこと、はほんの一部の、勉強が苦手な子、対人関係がうまくいかない子、家庭環境が厳しい子・・・そのような子たち、その周りの子たちが少しずつ成長していくことが、私が『学び合い』でやりたいことで、『学び合い』じゃないとできないことだと思っています。

 

つまり、私にとって③ができないと、『学び合い』を実践している、とはいえないのです。

そして今年度は①しかできていなかった。つまり「自分のやりたいこと」はできる範囲でしたけど、本当にやりたいこと③ができていないから、もどかしいわけです。一番大事なのはやっぱり③で、そのような『学び合い』実践者なんだろうな、と思います。

 

読んでいる方にとっては、なんのことやらという内容になったと思いますが、

これ結構大事なことだと思っています。

 

『学び合い』は考え方だから、一斉授業でも、いわゆる「学び合う」授業でなくてもできるんだ」と聞くことも、言われることもあったけど、僕は今明確に言えます。

「ぼくの考える『学び合い』は一斉授業ではできない」と。

 

要は、僕の実践する『学び合い』は「おに先生実践」であり、①②③すべてが「おに先生実践」なんだと思います。たいていの場合、②のような『学び合い』とは関係のない、というものはほぼないんだと思うのですが、やっぱり③ができているかどうかが、『学び合い』を実践してるかどうかの分かれ目なんだろうな、と思います。

 

このように考えると、

『学び合い』×ICT

『学び合い』×○○

というかけ算に対して、それが成り立つかどうかの判断基準は、

③があるかないか、と思います。