おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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#49 勉強は生きる糧

9月に受けた英検に合格していました。

 

これまでは早朝に少しずつ勉強していたものの、あまり身についている実感がありませんでした。

そこで、自分の勉強のモチベーションをあげるために受験を決意。

夏休みはテキストを使ってがっつり勉強しました。

 

大学受験や教員採用試験以来の勉強でもあったので、

「覚える」という行為が久しぶりな感じもしましたが、だんだん身についていく感覚が気分よく思ました。

 

人間というのは、勉強すること自体が本能で、生きる糧なのではないかと思います。

 

学ぶことは楽しいこと。勉強は自分を成長させてくれるもの。

それらを改めて感じることができました。

#48 管理職の評価

職場の飲み会に参加した。
勝手にのんで、酔い潰れたけれど
記憶はわりと残ってる。

教務という立場上、管理職の方々と過ごすことが多く、同僚たちからも「管理職側の立場」と思われがちだけれど、僕はあくまで「中間職」のつもり。できれば一般職員(このような言い方が適切かどうかは不明)側にいたい。

昨日の飲み会の話題の中で、一番自分が関心があったのが「一般職員は、管理職をどのように捉えているのか」ということ。僕が「管理職側の立場」でもある以上、控えていた部分もあると思うけれど、率直な感想が聞けた。

そこで改めて分かったことは、一般職員の管理職に対しての評価は「普段の言動」であること。大事なのは「誠実さ」女性陣は「カッコよさ」まで大事(笑)「管理職が◯◯をした」という噂は高速で広がる。職場内恋愛とかケンカの話の次くらいに早い。話をする機会をもらったので、管理職の方々の「いいところ」は少しだけお伝えした。それも僕の役目。

飲み会のマナーとして、そこで話されたことは心に留めるだけで、一切職場で話すつもりはないけれど、今後の自分の立ち振る舞いには生かしていきたいと思う。「酒飲んで、バカ笑いして、酔い潰れた。今日は踊ってない」くらいの評価の方が、僕にはちょうどいい。

#47 おにT

 

昨年度担任していた学年の教室に代替で入りました。担任がいないからか、子どもたちが口々に「おにTがさー」「おにTのときさー」と昨年度のことを話します。出てくる話のほとんどが「面白かったこと」です。一緒になって笑いました。

 
正直言って、昨年度は教務と担任の兼務がしんどすぎて、担任業務は最低限しかできなかったと思います。ただ今になってみて、最低限だったことが逆に、余計なプレッシャーなく子どもたちと関われたのかもしれません。
 
 人間、不思議なもので苦しい時のことは忘れてしまうけれど、楽しいこと、喜んだことはよく覚えているようです。今、学級担任から離れた立場だからこそ、子どもたちの存在とつながり、思い出がかけがえのないものだと気づきます。
 

でも、ここで留まっていれば、学級担任時代と同じ。一人でも二人でもいいから『学び合い』をはじめとした子ども主体の実践に関心をもってもらえることが僕のミッションです。

#46 同級生の死

大学時代の同級生が亡くなったと連絡があった。

37歳。乳がんだったそうだ。

 

不思議と実感がなかった。悲しいという感情も湧いてこない。

 

今日までずっと存在を意識していなかったからだろうか。

この世に存在しない、二度と会う事はないのに、違和感がない。

テレビで有名人が亡くなった報道のようだ。

 

「え、あの子が死んじゃったんだよ。学生時代、あんだけ一緒にいたんでしょ。わざわざ会いにきたし、年賀状だってもらっていたじゃん。なんで悲しくないの?」

 

過去の僕が自分に声をかけてきそうだ。

 

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彼女とは同じ大学の同じ学科で4年間過ごした。そんなに多く関わるわけではないけれど、会ったら話す仲だった。卒業論文の時期は一緒に頑張った。卒業旅行も一緒に行った。卒業後は、僕が地元に戻ったので、疎遠になったけど、年賀状だけは送ってくれていた。

 

結婚して、子どもができたことを年賀状のやりとりで知った。

 

7年前、家族を置いて一人で僕の地元に来たことがあった。数ヶ月間、僕の地元で仕事をし、過ごしていたそうだった。声をかけられて地元で一緒に食事をした。

 

「なんで一人できたんだよ」と聞いたけど、適当にしか返事をされなかったので深入りはしなかった。夫婦間か子育てから少し離れようと思ったんだろう、とその時は想像していた。今になって思うのが、病気のことがわかり、精神的に追い詰められていたのかもしれない。

 

それからしばらくして再会した時に「がんの治療中だ。今髪がないんだよね」と笑って言われた。その時も深入りはしなかった。

 

そしてそれが最後にあった彼女の姿だった。

 

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僕自身はそう遠い存在だと思っていない。

自分のことを多く語る人ではなかったし、病気のこともあまり知らなかった。

まさか、ずっと闘病していていたとは。7年以上になる。どれほど苦しかったのだろうか。

家族を残して死ぬことはどれほどの悲しさだったんだろうか。

想像をしていくと胸が苦しくなる。

 

でも亡くなった悲しみはまだ、ない。

もう会えないのに。人の死というものはこういうものなのだろうか。

 

 

言葉にしてみたけど、わからない。

でも、言葉にしなかったら、またいつもの日常に戻ってしまいそうだ。

彼女が生きてようが、生きてなかろうが僕の今の人生にはあまり影響はない。

影響はないけれど、何もないわけではない。少なくとも僕の人生の中で一緒に過ごした時間と思い出があるからだ。

 

人の死というものはこういうことなんだろうなと思う。

身近か遠いかで感じるものは違うけれど、

埋められない「何か」があると思う。

 

最後に

「今までありがとう。墓参りにいくからな」

 

 

 

 

 

 

#45 東京へ

久しぶりの東京。

都会、首都、中心・・・

いろんなイメージが湧いてくる場所、東京。

 

この地に来ると、地方との圧倒的な差を感じます。

東京、関東圏に住んでいる方は気づかないでしょうけれど、

テレビから流される情報って、東京発信、東京中心のものが多くて、自分が地方にいるんだなと感じます。

 

東京は人が多くてごちゃごちゃしている

ビルが立ち並んで圧迫感がある

 

そんなことを感じる地方の方もいるようですが

東京に来てみると、意外と緑が多く、広い公園がたくさんあることに気づきます。

上野公園、井の頭公園、皇居周辺・・・私が訪れた場所は、私が住む地方よりもゆったりした場所です。

 

元々歴史ある街がどんどん近代化していき、いい感じに混ざっているのが東京なのではないかと思います。

 

そんな東京ですが、私が生まれ育った場所でもあります。

小学2年生の時に、今の住んでいる地方へ引っ越しました。

生まれは東京、育ちは地方という感じでしょうか。「出身地」という言葉に時々困ります。

 

子どもの頃から満員電車や複雑な電車網の中で生きてきたからか、人混みに苦手意識はありません。

むしろ、ごちゃごちゃしている感じが好きです。

 

今回の旅では、以前から食べてみたかったラーメンと、ドラマのロケ地に行き、サウナの聖地に行きました。

東京の知り合いや友人たちに会うこともかんがえましたが、今回は見送りました。

大きな目的は上越へ。

志を同じくする仲間にあい、勇気をもらいます。

#44 時数を減らせばいい。

今週の勤務校は全学年、毎日5時間授業。15時には子どもたちは下校しています。

 

放課後に研修はいれておらず、ほとんどが授業参観の準備に使えます。

 

先生たちは通常の授業準備をはじめ、次週以降の行事の準備をしたり

 

少し早めに帰宅したり余裕を持って仕事ができているようです。

 

何人かの先生に聞いてみたら「余裕があってとてもいい」という声がたくさんありました。

 

ほらね、やっぱり。大事なことは「余裕」なんですよ。

 

長時間学校に拘束し、ありとあらゆること詰め込み、ギリギリの状況で毎日授業しても何一ついいことありません。

 

余裕がなくなれば、先生たちもカリカリするし、子どもたちも嫌な気持ちになります。

 

「授業時間を減らす」こんな簡単なことで、ありとらゆる問題が解決できるのではないかと思います。

 

そして、それができるのが私の今の立場、教務です。

 

本音をいえば、来週以降も全部5時間授業でいいくらい。

 

文科省にはぜひ標準授業時数を減らしてほしいところですが、それはすぐには叶いそうもないので、

 

時数ギリギリを攻めてみようと思います。

 

目指すはどこよりも余裕のある学校。

#43 定時退勤

おに先生は仕事にメリハリがありますね。

頑張るときはめちゃくちゃ頑張るけど、帰る時はスパッと帰りますね。

 

同僚から言われました。

僕はほとんど定時退勤〜17時台に退勤してしまうので、

「勤務時間内にバリバリ働いて、残って仕事しない」という事なんだと捉えておきます。

まちがっても、いつも残業しまくっていて、いきなりスパッと帰るわけではありません。

 

定時で帰る理由はいくつかありますが、一番大きいのは

「残って仕事しても、いいことがないから」です。

 

疲れて仕事の能率が悪くなる。

電話対応ばかり時間をとられる。

時間のかかる頼み事をされる。

 

残ってもこんなことばかりしかありません。

昨年度は担任を兼務していたので、担任業務を終えて放課後に教務業務をしていましたが、

そんな時に限って仕事を頼まれたり、電話を取ったりするのは本当に馬鹿馬鹿しいと思いました。

だから帰ります。

 

みんも早く帰ればいいのにね。

ま、担任業務はそうもいかないのは承知しています。

だから仕組みを変えるのが僕の専らの目標です。

 

 

#42 悩む30代後半の教員

今の学校に勤めて1年半。僕にできることは大体実現できた。

これ以上、僕にできることはあまりない。

来年度に向けて準備をしながら、日々の教育活動を維持することが僕の務めだ。

 

本当にやりたい事はまだ別にある。

学習者主体の学びを実現する集団学習のスタイルを広げることだ。

『学び合い』でも何でもいい。いい加減、従来型の教育観で行う教育活動を変革したい。

 

しかし、今の立場と環境で、できるとは思えない。

「言い訳するな、やれ」と誰かに言われそうだけど、簡単なことではない。

理解者が少なすぎる。そして直属の上司に楯突くほどのエネルギーはない。

 

上にも書いたように、僕の務めは日々の教育活動を維持することだ。

同僚に体調不良者がいたら補充をしなければいけないし、仕事に悩む同僚をフォローしなければいけない。

自身の家族を大事にすることも含めて、自分自身が心身ともに健康でいることが最重要だ。

 

そう考えると、今は機ではないと思う。

時々焦燥感に駆られるものの、じっと待つ。

きっとできる。そう自分に声をかける。

#41 力のある教師

教務という立場上、学校全体を見回して仕事をしている。
常日頃、いろいろな先生たち、いろいろな子どもたちを見ているが、いわゆる「力のある」先生のクラスは子どもたちが落ち着いている。

 

一つ目は、授業が分かりやすい。授業のテンポがよく、指示や説明に無駄がない。それぞれの先生の個性を活かして笑いや楽しさもある。

 

二つ目は、生徒指導が丁寧。まずは子どもの話をじっくり聞き、事実を確認したり、気持ちを代弁したりしたあと、明るく背中を押す。頭ごなしに怒鳴りつけたり、皮肉めいた言葉をつかったりしない。

 

三つ目は、保護者や同僚に真摯に向き合っている。細かい連絡、締切や約束を守る。挨拶やお礼、気遣いも欠かさない。そしてユーモアもある。

もちろん、どんな先生だって発展途上だし、力に偏りはあるだろう。しかし、自身の力不足を子どもや保護者のせいにし、すぐに特別支援学級や医療機関につなげようとする姿勢はいただけない。

 

子どもが落ち着かないのは、結局上の三つのどれかまたはすべてが足りていないのであって、子どもや保護者のせいではない。担任が変わって「落ち着いた」という現象を見れば明らかだ。

 

しかし、公立の学校というのは「力のある」教師だけで構成されているわけではないし、誰しもが発展途上なんだから、実力主義で何でもかんでも考えるものでもない。若い人は全方位で力量が十分なはずないし、学ぶ機会を持つことができなかった方だっている。私自身「たまたま」今まで何とかやれてきた(確証はない)だけであって、学校や環境が変わればうまくいかなくなることだってあるはずだ。

 

とはいえ「教師」という仕事を選んだ以上「力」はつけるべきだと思うし、自身の力不足を受け止め学び続ける必要はあると思う。

あくまでも僕自身の考えだけどね。業務改善とか働き方改革の文脈で何だかこのあたりが蔑ろになっていないか危惧している。

#40 どこを見ているのか

2学期に入り、校内授業研究が行われるようになった。

校内の研究テーマに沿って、授業者が指導案を作成。

複数の教師が授業を参観し、その後協議を行うというものだ。

 

はっきり言って僕は、この校内授業研究に意味を感じていない。

時間と労力のかけた割に、結果が伴わないからだ。

 

授業後の協議会で話されることも、だいたい同じ。

徹底した分析や課題改善はなく「子どもたちが頑張ってたからよかったよね」で終わる。

 

⚪︎⚪︎さんはーー考えていて、〜〜と表現していた。

△△さんはーーー考えていたようだが、うまく表現はできていなかった。

◻︎◻︎さんは最初から最後までーーーだった。

 

本来なら30数人の子どもたちの学びを分析し、思考や行動の変化はあったのか、どのように関わり、何を表現したのか

詳しく調べていくことで、その授業の良し悪しが決まるはずだ。

 

はじめからそこまでの分析はせず、数名の子どもから気づいたこと、数名の子どもが話をしていたことを拾って

自分の教育観と照らし、あれこれ言って終わる。茶番としか思えない。

 

教員になって数年はこのような授業研究に前向きに参加し、自ら授業をすることもあった。

 

ある年は自身の実践から『学び合い』に関心を持ってもらおうとしたり

ある年は徹底して校内のテーマの枠で自身のやれることをすべて盛り込んだりもした。

結局、いくら時間をかけて準備しても、労力をかけても大した影響も学びもなく終わることしかなかった。

つまり、やれば終わり。授業をすることが目的。そう理解した。

 

ならお前の考える授業研究って何なんだよ、って言われそうなので書いておく。

まず、くだらない研究テーマをなくす。現在の公教育で教科研究するなんて無理に決まっている。

学習指導要領に書いてあることを具現化する時間があるはずない。

「子どもと教師がイキイキと学ぶ学習指導」くらいでいい。

「イキイキって何だよ」って言われたら写真か動画でも貼って「これだよ」ってくらい示すようないい加減さでいい。

そして、もっと手間をかけずに、気楽に授業を見せ合いたい。

子どもの様子を見ながら、教師同士が子どもの学びや成長をたくさん見取りたい。

どうすれば全員が参加できるようになるか。どうすれば子どもたちはイキイキと学ぶのか。知的好奇心を高めることができるのか。

そんな話が授業中だけでなく、放課後にも話せたらいい。

 

ま、結局のところ『学び合い』の授業中の教師の見取りなんだけど、

これを理解するには『学び合い』を実践していないと無理だから、争わずに校内研究に参加しているフリをしている。

内心はいつも「くだらない」と思っている。十数年「くだらない」と思っているとイライラも何もしない。