おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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宝箱

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久しぶりに「宝箱」をあけました。

「宝箱」というのは、私が今までの教師人生で子どもや保護者から頂いた手紙やお便りやプレゼントの数々を入れている箱のことです。久しぶりにその箱をあけて、読んでみました。

いろいろな思い出が蘇ってきます。

 

このクラスこんなことあったな。

あの子、元気かな。

 

そんなことがたくさん思い起こされます

ついでに、数年前のクラスのことを書いたブログの記事を読んでみました。

f-manabiai.hatenablog.com

 

時間が経つにつれて忘れてしまっていることだったけど、大事な思い出です。

学校の先生の「やりがい」ってこういうところなのかもしれないです。

 

 

明日は卒業式。

もうすぐ年度末。

いつもだったら最後の日に向けて気持ちを高めていくけど、今年はそっと終えようと思います。そうしないと勝手に気持ちが昂ってしまうからね。宝物はそっと段ボールと心の中にしまってしまいます。

 

ひねくれ者

卒業生から「感謝状」をもらいました。

ただ、もらわなわない方がよかったなと思いました。

 

正直、今年度は寂しい。

学級という居場所がない。

子どもたちからは、「理科の先生」としてしか扱われない。

だからこそ、学級担任で気づかなかったことに気づけたり、いろんなクラスに関わることができたのですが、やっぱり寂しい。

いやはや、欲張りなやつです。

 

で、「感謝状」ですが、おそらく担任の先生が作らせたんでしょう。「させられ感」満載の感謝状でした。ついでに作って、ついでに渡したって感じ。まぁ、作ろうとした気遣いには感謝したいけど、今の僕には逆効果。無い方がマシです。

 

ああ、ということは僕にできることは、最後まで「縁の下の力持ち」か。だとすれば、担任の先生たちに、何か気持ちを伝えるように声をかけてみようかな、今度授業に入るクラスは。

うん、そうしよう。

スマホに脳をコントロールされていました

 

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

 

私はスマホ依存症に近いと思います。

勤務時間内はもちろん使わないのですが、それ以外は結構画面見ています。

だから自宅では「触らない時間」を作ろうとする時期もありました。

なぜなら、レストランなどで子どもを目の前にスマホの画面ばかり見ている親を何度も

見たからです。「ああはなりたくない」と思い、使い方を制限しました。

 

最近のiPhoneは、何をどれくらい見ているのか分かる機能があるので、見てみると

 

1、ドラクエウォーク

2、Facebook

3、Twitter

4、Youtube

5、サファリ(Google)

 

ということがわかりました。

ドラクエウォークは、見ているというより、歩いている時に起動させているだけで、実際に

見ている時間は少ないので、一番見ているのは「Facebook、Twitter」だということがわかります。

 

上に書いたように、スマホを見ている時間の多くをSNSに使っているのは自覚があったので、

一時期、スマホのアプリから削除することがあったのですが、必要な情報を得られないことや、発信する必要性があることから、結局アプリで入れ直し、今に至ります。

 

さて、このSNS。特にTwitterの方は「いいね」がつくこと、インフルエンサーがいること、

「バズる」ことそれらの特性はすべて「スマホ脳」すなわち、人間の脳の特徴をうまく利用した機能であり、いうなれば「操られている」とも言えると本を読んで改めて気づきました。

確かに、何度かTwitterからは離れたことがあります。あまりにもどうでもいい情報が目に入ってきて、いちいち心を奪われるからです。それはそれで大量のミュートとブロックでなんとかなりましたが、結局今もTwitterの「依存性」に引き込まれていることになります。

 

TwitterやFacebookも含めて、大量の情報が手に入りやすすぎるのも、「注意散漫」になってしまう原因だというのも、確かにその通りだなと思います。

 

私はどちらかというと、「注意散漫」気が散りやすいタイプだと思います。

本を一気に読めないし、話をずっと聞くのも苦手です。

何かをしていたら、他のことが気になって同時並行でこなしたくなります。

そうならないように、場所や環境を変えることを工夫しています。

ただ、この本に書かれていたことで「人間は一つのことしか集中できず、何か注意を切り替える時に、時間がかかってしまう」というのは「なるほどな」と思いました。

確かに、10時間勉強してやろう、と受験生時代に意気込んでいても、結局実情は3〜4時間分くらいしか勉強できていない、ということはザラでした。うまく気を散らしながら、気分転換をしながら勉強する、というのが自分のスタイルだと思っていましたが、スマホを利用するということは、自分の特性を加速させて、より集中力を削ぐことが分かります。これはよくない。

 

 

一年くらい前から、朝のランニングと週数回の筋トレをはじめました。

仕事の環境が変わったからというのもありますが、1日の気分が全然変わることがわかりました。また、夜は一定以上の時間に間食をしないとか、睡眠時間は十分に確保するということも意識しました。体の調子がいい=仕事の調子がいい=気分がいい ということは自分の人生を充実させるということがわかりました。ストレスなんてものは、結局のところ、自分の脳が感じていることであって、その脳をうまくコントロールすれば、そんなものは「散らす」ことができることもわかりました。つまり、幸せかどうかは自分の「脳」次第で、「脳」が幸せを感じられる状態にすれば、幸せになれる。なんて、単純明快なのでしょうか。

 

よく寝る、栄養のよい食事をする、運動をする、スマホを必要以上に使わない。

 

これだけでいい。何かお金をかけなくていい。

そして、それらをすべて台無しにするのが、スマホ。SNS。

現代社会に生きる多くの人が、スマホに脳をコントロールされ、依存症になり、不幸になる。

なんてことだ。

これは教育に携わる身としても十分知っておくべきことじゃないかなと思います。

 

ダラダラ書きましたが、とても良い本だと思います。

2年間の総括

もしかしたら、私が担任をしていた時に、子どもたちに求めていたものは、高い?(こだわりの強い)ものだったのかもしれない。それによってある子にとっては、グンと力を伸ばす機会になったかもしれないし、ある子にとっては、必要以上に要求をされる迷惑な時間だったのかもしれない。

 

僕はある種「恐れ」を持って、子どもたちに求めていた。

「学級崩壊」「いじめ」「保護者からのクレーム」

こういったことへの恐れだ。よりよい学級づくりができなければ、どこかで綻びが出て、

崩れていってしまう・・・。もちろんそれが担任をしている時だけではなく、次の年以降も・・・。

 

そんなことを「恐れ」ていた。

しかし蓋をあけてみれば、そんなことは全然なかった。

 

私から見れば気になることも、全然問題なさそう。

私が不安に思っていたことも、全然問題なさそう。

 

ああなんだ。自分だけ一生懸命になりすぎていたのかな。

もっと「ほどほど」でもよかったのかな。

 

・やらされる宿題ではなく、自分で考えて学べるようにすること

・時間を守ること

・姿勢をただし、座り方も気をつけること

・机や教室は整理整頓すること

・一言、挨拶をすること

・掃除は自分たちで考えて、取り組むこと

 

書き出していたらキリがない。

 

私が担任していた時のことなんて、過去のこと。

私が担任していたクラスなんて、過去のこと。

正直「どうでもいい」んだろうな。

 

ただ、何かしら感じてほしい、言葉にしてほしい、という自分がどこかにいる。

「おに先生の、○○(取り組み)よかったですよね」と。

○○には、できれば『学び合い』が入ってほしいなと思うところだけど・・・

なんていったって、力を一番入れてきたところだから。

そこに「価値」を感じてもらえないのであれば、なんだか悲しい。

 

とはいえ、自分が今まで担任してきた子たちも、その前の先生たち、保護者など多くの大人たちが関わってきた末の姿。自分がすべて「変えた」だなんて甚だ傲慢だ。

 

担任をした1年、担任を離れた1年。

2年間の気づき、今更ながら見えてきます。

 

 

ファンキーモンキーベイビーズ

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3月11日のテレビ番組で、一夜限りの復活のファンキーモンキーベイビーズ。

ファンモン。FUNKY MOKEY BABYS。

思わず画面にかじりついて観て、歌っていました。

 

僕にとっては、「唯一」と言っていいほどファンになったグループ。

ライブに行ったのも、このグループだけだし、アルバムは何度も聴いてほとんどの曲を知っています。自分にとっては珍しいくらいの、入りこみっぷりでした。おそらくちょうど、「ファンモン世代」と思うくらい、彼らの歌の歌詞が響く年頃に彼らに出会ったんだと思います。

 

その頃の僕は20代前半。

学生時代でした。

肩書きも、責任も、そして将来も見えない。

ただ毎日を漠然と過ごしていること、何か大きな役割がないこと、目指すことがないこと、

そんな自分に不安を感じている時期でした。仲間たちとワイワイやっているのが、なんだか嫌になっていた時期。

 


FUNKY MONKEY BABYS 「ちっぽけな勇気」

 

この曲の「俺たちはまだちっぽけで この手のひらの中には 何もないけど 雨にうたれ 風にふかれ でも諦めないから 諦めたくないから きっといつか 何かをつかむんだ」という歌詞が当時の自分に響きました。

 

この曲を聴いている頃は、まだ平和で、自分に酔っていてもよかったのですが、学生時代の最後に、大きな出来事があり苦しい時期を過ごすことになります。身も心もボロボロになり、食事もロクにとれず人生で初めて「激痩せ」をした頃なのですが、その時もファンキーモンキーベイビーズのストレートすぎる「応援歌」が僕の心の支えでした。

 


FUNKY MONKY BABYS「ガムシャラBOY」歌ってみた!!

 

この時、自分にいつも言っていたのが「きっとできる」という言葉です。

先の見えない、答えのない日々に「きっとできる、きっとできる」という言葉を念仏のように唱えていました。

 

話はそれますが、「きっと」という言葉は「屹度」という漢字で書きます。

屹は、「険しい山」

度は、「渡る」だと考えられます。

「きっと」は「険しい山を渡ること」という意味からできた言葉なのでしょう。

 

きっとできる、きっとできる。

人生は山登りのようなものなのかもしれません。

ファンキーモンキーベイビーズの楽曲は、ストレートすぎて「臭い」とも思われますが、

僕はそういう方が好きですし、心の支えになっていました。

 

小説の世界にあるような、人間の奥ゆかしさや難しさを感じることもよいけれど、

「素直に生きること」もまたありなのではないか、と思います。

 

 

ああ、こういうことを語りたくなるのが、「僕らしい」先生としての終わり方なんだけどね。

なかなかそうもいかないらしいです。

 

3.11

東北から遠く離れた私にできることといえば、

現状を知ろうとすること。想いを馳せること。人に語ること。

そんなことより、行動しろよ、という声が聞こえてきそう。

そう、その通り。

僕が想いを馳せたところで、何にもならない。

ただ、このブログを書いて、このブログを目にする方がいて、

その方と一緒に、何かを感じれば「ゼロ」よりはマシかな、と。

すみません。あれから10年、僕は何も行動していません。

また今日も「他人事」のニュースや番組が流れることでしょう。

私も同じです。

 

同情するなら金をくれ

 

あるドラマの名言が浮かんできます。

教育観を言葉にしてみよう

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「どんな子どもを育てたいのか」

「どんな授業がしたいのか」

「『学び合い』で何がしたいのか」

 

そのような問いに自分なりの答えを出そうと試行錯誤してきました。

そして今年度『学び合い』ができないことをきっかけに、自分が「どんな授業をしたのか」が見えてきました。また、今まで『学び合い』によって、何を目指してきたのか、わかってきました。

 

そして先日、とある方の話を聞き、自分の中でモヤモヤしていたものが、一本の線になったように思い、あわててノートに書きました。

 

まず、『学び合い』について。

私が初めて『学び合い』に出会い、それを続けてきたのは

 

「全員が分かるようになってほしい」と思っていたからだと思います。

 

いや、それはどんな先生でも思うでしょう、とツッコミたくなるところです。

確かに多くの先生は、「全員が分かる」ように授業をしていると思いますし、教育活動をしていると思います。残念ながら、「全員が分かる」ことはそんなに簡単ではなく、気づかなかったり、何かのせいにしたり、見て見ぬふりをしていると思います。そうでなければ、日々の授業は成り立つはずありません。

 

教員3年目の時に、「全員が分かる授業ができていない」「全員が満足するクラスを作れていない」ボヤっとそういうことを思っていました。プライドが高かったのか、それを認めたくない自分がいる一方で、自分の力の限界を感じてもいました。

そんな時に出会ったのが『学び合い』

 

はじめは、交流学習のようなとらえ方でしたが、だんだん「子ども同士のほうが分かる?」と思うようになり、最終的には、教師がでしゃばるよりも、子ども同士で学び合ったほうがいい、ということが分かりました。

 

『学び合い』に出会い、そのように思えたのは、必然か偶然かわかりませんが、

もともと『学び合い』は「すべての子が学習内容を分かる授業」を研究してうまれたものだそうです。言葉をかえれば、

 

『学び合い』とは子ども全員の学習が成立することを目標にした、授業の組み立て方

 

といえるそうです。

そして、不要なものを削いで削いでまとめたものが、三つの観と一つの願い、ということだそうです。

 

私は、数少ない本と手引書を頼りに実践を行い、時間はかかりましたが、『学び合い』の本質に向かおうとしていたんだと思います。

 

さて、『学び合い』を実践するにあたって、「セオリー」はありますが、学校の教師の仕事に満遍なく対応できるわけではありません(突き詰めれば対応できるのでしょうが)例えば、「一人も見捨てない」を語る際に、何をどのように語るかは、その先生、目の前の子どもたちによって違います。そうなると結局「先生はどうしたいのか」がその語りにかかわってくるんだと思います。

 

子どもたちを見ながら、課題を考え、語りを考え、様々な教育活動を行っていく上で、

何度も何度も考えるわけです「先生はどうしたいのか」と。曖昧なことでも、「曖昧でないように語る」のが先生のスキルです。自分が言っていることと、自分がやっていることがズレていたら、子どもたちに見透かされてしまいます。

 

 

例えば、小学校の教師でしたら、「朝の会」「帰りの会」をする先生が多いでしょう。

「係活動」や「清掃活動」もあるでしょうし、「宿題」や「学級通信」もあるでしょう。その一つ一つが『学び合い』の本にのっているわけはないですし、セオリーもありません。ですから、「自分がどうしたいか」を考えている癖がつくと、すべての教育活動に意味があり、「先生はどうしたいか」が含まれてくると思います。

 

 

10年近く小学校の教師を続けてきて、自分なりに言葉にしてみると、

「私がしたい教育活動」は、「自律・自立」に集約されると思います。

 

もう少し言葉を増やせば、

自律した学び手、すなわち「自分に合った学びを見つけ、かしこく学びを続けること」

自立した生き方、すなわち「自他のことを知ること。自分で考え、決めて、行動できること。生きる知恵を得ること。他者の力を借り、周りと折り合いをつけながら生きること」と考えています。

 

その根拠は、といえば「根拠、俺」なのですが、できる限り、これから先の未来を考え、どんな時代、どんな社会になっても生きていく力を模索することが必要だと思います。

 

このように考えると、私の目指している教育は、「全員が分かる」『学び合い』よりも先に進んでいると思います。しかし『学び合い』から離れているわけではありません。

やっぱり、自分のかかわる子たちは、どの子も「わかる」ようになってほしいし、「楽しい学校生活」を送ってほしい。これから先の人生もよりよく生きてほしい。

だから私は『学び合い』実践者であり続けると思います。

 

 

さて、長くなったので今回はこれくらいにしておきますが、

次回は、ICTとどう向き合っていくか、について考えたいと思います。

教師の資質・能力とはいうけれど

教師の資質・能力

 

 

よく聞く言葉だけど、いったい何だろうな、と思います。

答えられる人、いるんだろうか。幅広すぎだよね。

 

先日、「優秀な人材を教員として確保する」って記事を読んだけど、

 

学生時代から、教師に向いている「優秀な人材」っているの?

その人材を生かせるだけの土壌が、学校現場、職員室にあるの?

 

いまや、大きな顔をして研修とか推進とか行っている私は、採用試験に全然受からなかったですが??

 

 

さて、前おきが長くなりましたが、私が考える教師の「資質・能力」って

「子どもの成長を喜べる」人ではないか、と思います。

で、私が出会ってきた学校の先生は、見えやすい方、見えにくい方はもちろいますが、大抵持ち合わせていると思います。

 

行事だったり、研究授業だったり、「見えやすい」子どもの成長、

ちょっとした場面での子どもの成長、

年度をまたごした子どもの成長、

 

なんだかんだ、そのような話ができることが、教師の「資質・能力」ではないか、と思います。

だから、特殊なことでもないし、「優秀」でもない。

 

 

私自身も、いったい自分が何をやっているのか、分からなくなる時があります。

自分のエゴで教育活動をしていることもあります。

「子どものために」と言いながら、「子どものためになっていない」こともたくさんあると思います。

でも、目の前の子どもが何かしら成長して、時に涙を流しながら喜べるって、この仕事の醍醐味ではないか、と思います。

 

今年度、僕にできたこと、やろうとしてきたことの根源はここかもしれません。

 

 

一年間が終わろうとしています。

 

【ネタバレ】エヴァ観てきました。

シン・エヴァンゲリオン劇場版、観てきました。

情報が手軽に入るこの時代、「口コミ」を見て何かを選んだり、決めたりしがちですが、

自分が興味あることくらいは、自分で見極めたい。そう考えているので、好きな映画はなるべく早く観るようにしています。そして、「シン・エヴァ」初日から観てきました。

 

 

正直、「観てきました」何書いても「ネタバレ」になってしまうと思うので、一ファンとして

少しでも具体的な発信は避けようと思いますが、まっさらな状態で感想も書きたいと思い、

このブログに書こうと思います。

 

当たり前ですけど、

 

 

観ようと思っている方は、この先を読まないでください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エヴァ、終わりました。「終劇」です。

これだけでも「ネタバレ」ですからね。だいたい「つづく」ですから。

「終劇」と出るだけでもびっくり。

 

 

いやー、長かった。

アニメ、映画、コミック、そして新劇場版。

いったい何年かかったの(笑)

それはウィキペディアに任せるとして、

新劇場版だけでいえば、「序」「破」のリメイクっぷりに感動し、

「Q」にボコボコにされ、なんと「シン」では様々な伏線回収とな。びっくり。

わからなかったのは、「マリ」だけ?

「破」の終わりまで伏線だったなんて、いったいどれだけ構想していたのよって。

初号機に槍さしたのも、アスカの眼帯の意味も、ここで出すんだって、びっくり。

いやあ、「Q」でやられたから、正直ビクビクしていた人多いと思うけど、

しっかり、「まとめた」なと思います。

 

 

ただ、神話的な話はわけわからん笑

途中、やばい終わり方するんじゃないのって思ったし、

懐かしのシーン入れまくっていったいどうすんのよ、って感じだったけど、

遊び心というか、今までのエヴァを総まとめしてるのかな、って思った。

最後、デッサン書きになったのはなぜ・・・。あと宇部新川(笑)

 

前半の「第三村」で懐かしのクラスメイト出しながら、人が生きるってことは何かってことを問うたり、シンジが復活していく様や、ゲンドウの回想シーンなんかも、どっぷり人間臭い場面を作ったのも印象的。ずっとゲンドウは言ってたけど、結局、ゲンドウの贖罪というか、

自分を納得させるための行動で、息子がそれを宥めるって感じなのかな。

 

ま、なんか共感するところはちょっとあったけど。いや、人が孤独な存在で、人の優しさに触れる、家族を得るということは、永遠のテーマなのかなとも思います。

 

 

とまあ、ダラダラ書いてなんてまとまりのない文章になってしまったけど、

一緒に映画観ながら、感想を話せたら楽しいだろうな。エヴァって好き嫌いあるからなあ。

 

 

 

最後に、「シン・エヴァは傑作であり、エヴァの最後の作品です」

 

 

 

 

GIGAスクール構想はうまくいくのか。

ICT活用推進に携わりはじめて、数ヶ月が経ちました。

このような立場なので、いろんな情報を仕入れますが、いつも思います。

 

GIGAスクール構想はうまくいくのか

 

上の方からは「勢い」を感じます。

しかし、学校現場からは「変わらないよ」という態度を感じます。

 

上の方からは、いろんな「良い」事例を紹介されます。

そりゃあそうでしょう。「良い」事例を見せることで、具体的に何を進めていけばいいか

見えてくるわけですから。

ICT活用推進役を行なっていてわかりましたが、「推進」「先進」していると白羽の矢がたち、その部分をとりあげようとし、関係各所に説明しようとする。

それはそれで仕方のないことだと思います。

 

しかし、あくまでもそれは「上澄み部分」

 

底の方はまあ、「それなりに」やっていたり、全然進んでいない、なんてことがあるんだと思います。

 

 

学校現場に10年近くいますから、だいたいわかってきましたけど、

学校の先生って「変わりたくない」人たちなんだろうな、と思います。

もちろん僕もその一人です。

 

だから、今までの前例を踏襲して、新しいことをしようとはしないし、

今までの前例を疑って、変えようとしたり、精選しようとしない。

コロナ禍、休校という学校にとっては、ものすごく大きな衝撃だったはずなのに、

結局、元に戻ろうとしている。そんな気がします。

 

もちろん、学校現場が忙しすぎる、大変すぎるのもわかっています。

変化なんかするより、安定している方がいい。そう考えるのは間違いないでしょう。

しかし、変化を嫌ったり、安定していることを望むことで、自分たちの首を締めていることにも気づいていないように思います。

 

今年度の途中に一人一台の端末が配備され、一部の先生たちは、「使う」ことができるようになったと思いますし、「活用」できるようにもなったと思います。それでも使いも活用もしない人はもういいんじゃないでしょうか。自身がどのような立場で仕事をしているのか、忘れきっているんですから。そんな方に何を言っても通用しないでしょう。

 

とはいえ、「根本」が変わらなければ、ICTも結局道具。

どんなに上の方が動かそうとしても、使う人が変わらなければ、何も変わらない。

単純に「負担」になる。負担になれば、余計に使わなくなる。

いつも通りの授業といつもどおりの学校生活を送り、それなりに「使った」ふりをする。

 

結局のところ、被害を被るのは、子どもたち。

情報活用能力も身に付かず、学び方も身に付かず、必要のない知識だけをダラダラ入れさせられ、入試や成績にしばられ、学んだふりをする子、学校にひとまず適応する子だけが、残っていく。そして、もう賢い保護者、先が見えている人は、学校を見捨てるんだろうな、と思います。そうなった時に、何がはじまるんでしょうね。学校の教員が切り捨てられていくのでしょうか。

 

このように考えると、私にこれからできることは、学校現場を少しずつ変えていくこと。

ICT活用推進という波に乗り、の在り方を問い、ICTの活用の在り方を問う。仲間を増やし、発言力をつけていく。結局それが、多くの子どもたちの未来につながるはず。

 

そのためにも、謙虚に学び続けないといけない。頭を下げ続けないといけない。

GIGAスクール構想がうまくいくかどうかは、私の行動にかかっている、と思うと頑張ろうという気持ちになる。