メタ認知・心理的安全性・神経伝達物質
おそらく僕は、気が散りやすい方だ。
だから、場所を変え、気分を変え、方法を変えて、自分なりの「集中する方法」を
いつも考えてきた。
一番はじめは、大学受験のための勉強をしている時だったと思う。
家では音が聞こえるから集中できない。
だから、近くの自習室に通ったり、学校に行ったり、電車に乗ってみたり・・・色々試した。
また、同じ教科を勉強し続けることも難しかったので、散歩したり、運動したり、気を紛らわせたり・・・色々試した。
結局、大した結果は得られなかったと思うが、「自分なりの最善の方法は何か」という姿勢は身についたのではないか、と思う。これこそ、私なりの「心理的安全性」を確保し、「メタ認知」していることだったんだろう、と今更ながら思う。
「心理的安全性」「メタ認知」については、この本でテーマになっていら2つの事柄で、
「脳神経科学」の視点から人がよりよく生きていく上で欠かせないことだと感じた。
受験勉強期に、自分に合った勉強法を見出そうとする姿勢は、結局その後の人生でもずっと続き、勉強方法だけでなく、「働きやすさ」「生きやすさ」を自分なりに見つけようとする姿勢につながっている、と思う。
そう考えれば、その当時の試行錯誤は無駄ではなかった、とも言える。(当時の自分は成績を上げることで必死だったから、15年以上先のことなど考えているはずない)
さて、気が散りやすい僕は、いろんなことに興味・関心を持ちやすいが、一つのことに集中できない、という弱さがある。
・音楽
・野球
・読書
・英会話
・筋トレ
・マラソン(ランニング)
・仕事
ざっと挙げればこれくらいあるが、続いているのは「仕事」くらいではなかろうか。
次に「筋トレ」と「ランニング」が続いていて、その次に「英会話」か。
筋トレについては、何度もこのブログで書いたが、自分に合っている「習慣」の一つではないか、と思う。
この本を読む前から、自分なりに「筋トレ」には興味はあった。
しかし、続かなかった。結局「目的」がはっきりしていなかったことと、続けるための「戦略」がはっきりしていなかった、と思う。
自分なりに筋トレする目的は「達成感」と「気分転換」だ。
この本に書いている通り、筋トレをすると、悩んでいたことがどうでもよくなり、
達成感に溢れて、気分がよくなる。ヘラヘラ笑って、気持ちが悪いくらいだ。
この「達成感」と「気分転換」は、筋トレの最大の魅力ではないか、と思っている。
そして、これは脳内の神経伝達物質も影響している、と言える。
筋トレをすると、「テストステロン」という化学物質が脳内で放出されるらしいが、
まさに「達成感」「気分転換」の原因はこれ。
この時はっきりわかった。自分の気分なんてのは、わりとコントロールできる、ということを。悩んでいる状況は何も変わらないのに、さっきまでのイラつきはどこにいったのやら、不思議なくらいだ。脳内の神経伝達物質次第で、自分の気持ちは変わるし、自分の人生も変わるんだということを筋トレで学んだ。
そう考えると、自分が気が散りやすいタイプだというのも、うまく付き合っていくことができる。自分なりに、集中しやすい場所と方法を選んでいくことで、集中するための「神経伝達物質」が放出され、「うまくいった」という達成感も生まれやすい。
上の本で言えば、「ノルアドレナリン」と「ドーパミン」が関与しているらしい。
ん、「ノルアドレナリン」と「ドーパミン」ってどこかで聞いたことなかったっけ。
ああ、ADHDだ。
そうそう、確かADHDってのはこの「ドーパミン」とか「ノルアドレナリン」がうまく機能しないことから、いろんな症状が現れるんだったな。(症状というのは語弊があるが、あえて使う)
「自律する子の育て方」にも少し触れていたけど、「ドーパミン」は「やってみたい」「知りたい」からうまれてきて、集中を持続させやすく、「ノルアドレナリン」は「やるぞ」「やらねば」から生まれてくるけど、いろんなことが過敏になってしまう、と。
ということは、僕自身は「ノルアドレナリン」が「ドーパミン」より多く出てしまう傾向にあり、集中が続かなかったり、気が散りやすいんだろう。そこをうまくコントロールして、
「ドーパミン」をうまく出していくことで、集中することができる、と。なるほど非常に合理的だ。
これらの脳内神経物質を適度に出すために必要なことが、「休養」と「食事」であり、
結局それは「筋トレ」と「ランニング」につながってくる。
この動画では細かく話していなかったけど、結局朝の運動が、ドーパミンのような脳内神経物質をほどよく出させて、それが持続しやすいんだろうなと思う。実際に一年間、朝のランニングを続けてきたけど、その効果ははっきりしていると思った。走った日とそうでない日は、体の軽さというか気分の軽さというか全然違う。同じ1日を過ごすんだったら、気分が優れている方が、いいに決まっているから、僕は毎朝走るようにしている。
いや、もはやもうルーティン化しているから、「走ろう」という気持ちもあんまり起こらず、
歯磨きをするくらいの感覚だ。この「ルーティン化」も「自律する子育て」に触れてあるけれど、脳というのは、同じ状態を保つようにできているから、新しいこと、変化に対しては抵抗感を示すとのことだ。「三日坊主」にも言えることだけど、確かにそれは言えている。ただ、それを乗り越えさえすれば、あとは脳の中で「これは異質なことではない」と読み込めば、ルーティン化することができる。実は最近、英会話の勉強が滞っている。間違いなく、脳の影響だ。ここはうまく、理性で「やるぞ」と働きかけないといけない。
最近、息子がもうすぐ小学校に入学するということもあって、勉強を少しずつするようにしている。もちろん、「やれ」と言っているわけではなく、同じ時間帯に、短い時間で、報酬ありで行っている。まだまだこちらが誘わなければやろうとしないけれど、やり始めたら乗ってくる。最後の方は「やめようか」と言ってもやめない。きっと脳内でドーパミンが放出されているんだろう。ついでに、妻も僕も一緒に勉強をするようにしている。この「家族全員勉強時間」ほどよく、脳のブレーキに対して「やらねばならぬ」という行動を起こすことで、ルーティン化につなげる取り組みだと捉えている。幸い、妻も「15分なら続けられる」「やってよかった」と言っている。やらないことを嘆いたり、やろうとするストレスを抱えるより、
「ちょっとでもやった」という達成感がきっと脳内の神経物質を出させているんだろう。
こうやって、うまく脳をコントロールすれば、自分の幸せも作り出すこともできる。
世の中には、「結婚すれば幸せ」みたいな風潮があるが、結婚したあと離婚することもあるし、実際にシングルマザーはたくさん見てきた。また、妻からの夫への不満も聞くこともたくさんある。「結婚すれば幸せ」はどこに行ったのやら。
おそらくこれも脳内の神経伝達物質とうまく付き合えばよくて、日々の生活に対して、
「心理的安全性」を持ち、「幸せ」と感じられるようになればいいだけだ。その「幸せ」の形は何でもいい。できればお金がかかったり、誰かにしてもらったりする「報酬型」ではなく、
目の前に我が子がいることや、自分のちょっとした小さな成長に対して、「幸せ」を感じられたらいい。繰り返しになるが、「筋トレ」は最もそれを簡単に成し遂げることができる。
小学校の教員として働いている時は、子どもたちの関わりから自分なりの「やりがい」を得て、いたんだろうなと思う。子どもとの関わり以外にもあまり意味のない仕事を短時間で済ませることに対して達成感を得たり、誰かに貢献して達成感を得たり、単純に「忙しい日々」に充実感を得たり・・・。改めて、小学校の教員から離れてみて思うのが、それは自分の人生にとって必要不可欠な「充実感」ではなかったのではないか、ということ。
今、忙しさから離れて、自分なりに過ごしていることにとても満足できているということは、心理的安全性が確保され、うまく脳内の化学物質が出されていることを表しているだろう。
今までの仕事に対する充実感はないけど、自分なりに仕事を見つけたり、学んでいく充実感はとてつもなく大きい。いやむしろ、自分はこちらの方が重要だったのかもしれない。
昨年度、3ヶ月育児休業をとって、仕事から離れた時も同じことを感じた。
自分は別に学校の教員として生きていかなくても人生に充実感を得ることができるんだ、と。
今のことろは、学校の教員以外の仕事で何ができるかわからないし、変える必要がないから考えていないけれど、離れてもあまりダメージはないのかもしれない。
それも自分が自分のことをメタ認知できるようになったからであり、まあ何とかなるだろう、という気持ちがあるからかもしれない。(もちろん、今は学校の教員でいることの方が収入面で得なので、辞めるつもりはない)
人間というのは、人生というのはとても面白い。
コントロールできないものだと思っていたけど、だいぶコントロールできている。
今日はロッテリアでこの記事を書いているけれど、仕事にいく前に、こんなことができるだけで幸せなものだ。誰がいったいこんな記事読むんだって感じだけど、この「ブログを書く」ってのも、自分なりのメタ認知的な行為であり、自分の達成感を得るためのもでしかないから、
全然そこは問題ない。ああ、そういえば、このブログにしても、ずっと続けてきたのは結局自分にとって、「書く」ことが、心理的安全性につながるんだろうな、と思う。