語り
・探究的な学習ってさ、基本的に一人でやるものだよね。だって、課題は別々なんだから。で、そうやって机寄せているのって、意味あるの?あるならいいんだよ。たださ、一緒に机を合わせていることで安心感を得たり、ダラダラしゃべりながらしても、それって価値があるの?もちろん、クラスの仲間と学習する価値はあるよ。一番わかりやすいのが、同じ課題にしている人と共同研究ね。いろんなヒントを得られることができると思うんだよね。また、課題が違ってもお互いに調べていることを途中で交流しあったらヒントが得られることもある。
こういうのって、大学のゼミってところでやるのよ。もっとも最後は一人なんだけどね。でもさ、一緒に研究する仲間がいるのといないのじゃ「一人」ってのは全然違うよ。ファミレスで一緒にダラダラしゃべるのとは違うんだよね。
・先生いない時にさ、安全と衛生に気をつけて過ごしてほしい、って言ってると思うんだけどさ、これ本気で守ってほしいんだよね。そりゃシーンとなっておけとは言わないよ、でも限度があることと、暴走しだしたらお互いに止めないといけないと思うんだよね。「自分だけならいいや」ってそういうワガママな気持ちを持ってるといつか自分が損する。どういう損かはいろいろ。自分が過ごしにくいクラスになる、自分が人に迷惑をかけているいことに気づかない、いじめのようなひどいことが起こる・・・などなど。
だからさ、結局こういうことが起こるんだよね。ワーワーやっても、気にしない。それって地下鉄とかさ、病院とかさ、公共施設とかさ、みんなが過ごすとことでやっちゃうのと一緒なんだよね。大人でもそういう人たちいるよ。でもねえ、やっぱりみんなが過ごしやすい場所を作っていけるのが大人なんじゃないかな、と思うだんけどどう?君たちの今の時間は、あまりにも自分勝手すぎやしませんか。
・なんで社会科の学習は先生が進めているかって?今は、まだ君たちに任せられないんだよ。
グラフの読み方、図表の読み方、そういうのって基本的なことがあるんだけど、以前それを任せちゃった時、全然読めていなかったのね。だから、ちゃんと一回は教えようと思って。でも、それでもわからない人がいるだろうから、いずれは君たちに任せていくつもり。
・単元プリント『学び合い』にするとさ、効率がよくなるんだよ。でもいいかげんになることもあるんだよね。
だから、しっかり課題を捉えないといけない。でも正直2年生には難しかったなあ、と思ってる。でも君たちならできると思うんだよね。たぶん。自分のことしながら、周りをみれるようになった人多いとおもうから。
でも、みんなが今どこにいるかわかるように、この名簿だけは使おうと思っている。活用してみてくれ。、
授業を見学して
今日は、『学び合い』仲間であり、大先輩でもあるO先生の『学び合い』の授業を見学に行きました。
「どんなクラスを目指しているのか」「どんな子どもたちに育てたいのか」という教育観がO先生のクラスの様子から伺えました。「安心感」というキーワードでいえば、ここまでのクラスはみたことはありません。一回の授業ではなく、4月からずっと積み上げ、語り続けてきたもの。教室掲示の中からも、子どもたちの関わり方からも、先生の言動からもわかりました。これを言葉で表現するのは難解ですし、「これが『学び合い』だ!」というのもちがう。O先生が子どもたちと築き上げてきた「一部」であり「過程」であり、「O実践」といった方がストレートかもしれません。
O先生は、「これを『学び合い』と呼ばなくてもいい」とおっしゃっていました。確かにこれを『学び合い』と呼べば、はじめてみる人、これからはじめる人にとっては、この教室を「『学び合い』スタンダード」「『学び合い』の理想の姿」と捉えてしまうかもしれません。変に誤解して「立ち歩いて学んでいるのがいいんだ」と軽く受け取ったり、「こんな雰囲気のクラスをどうやって作ればいいんだ」高すぎる目標と捉えたりするかもしれません。だからこれは「O先生が、『学び合い』の観と願いを解釈して具体化した実践であり、過程であり、一部」という認識の方がいいのではないかと思います。「『学び合い』の一例」でもいいです。
このように考えていくと、私のクラス、私自身と比較してしまいます。
自分のクラスに足りないもの=私自身に足りないもの
なんだと思います。
もちろん、O先生はO先生、私は私なので比べるものではないとは思います。
しかし、O先生の教室、O先生の言動は私の理想でもあり、憧れなんだろうな、という思いもあります。
O先生と子どもたちとの姿を見て、「ああ、子どもたちと先生はお互いに信頼しているんだな」「子どもたちはこのクラスで、この先生のもとだから、自分らしくいられるんだな」と思いました。なんかすごく微笑ましく思いました。私が思う教師として一番理想的な姿だろうなと思いました。
おそらくO先生は、『学び合い』の2つの観を私よりもさらにさらに突き詰めていると思います。
「人は多様だ」「子どもは有能だ」という事を、私以上に誤魔化しなく語り、行動しているんだろうと思います。それは、人間性とか、器とかそういうレベルで圧倒的に広く、深く・・・。だから、10年そこらの教師経験で私が辿りつけるものではないと思います。教師としてでなく、人として生きている時間も圧倒的にO先生よりも短い。だから、すぐにあのレベルのことができるとは思ってはいません。
ただ、心がけ次第で、近づける事は間違いないと思います。ほんの一歩、ほんの半歩だけかもしれないけど。
それが、私にとって、学校の教師として「人格の完成」を目指す過程なのかもしれません。
『学び合い』はそんなことを私に教えてくれるきっかけを作ってくれました。
いつまでも答えのないその先へ。
今年の『学び合い』のあらすじ
ざっくり今年の『学び合い』のあらすじ
⓪学校に来る意味を語る
①全員達成を目指す
②課題の質をあげる
③テストの点数を意識させる
ーーここで連休ーーー
④単元を通した課題を出す。
⑤教師への説明、を課題に含ませる
ーーここで運動会ーーー
⑥単元の課題を書いた「単元表」に振り返りを書く。
⑦一部一斉授業にする
⑧他教科の『学び合い』との関連を語る
⑨単元残りの分をすべてプリント化
⑩全員達成を目指す
↑イマココ
あらすじだから、もっと付け加えないといけないんだけど、
一つ言えることが、①から⑩まで、ずっと『学び合い』をしていた、ということ。
習熟度別とか能力別とか
そろそろ多くの学校でプール学習がはじまっていると思います。
私は高学年担任なので、「水泳」なのですが、今年度も「コース別学習」を行うことになりました。
「コース別学習」とは、それぞれの課題や能力に応じてコースを変えて、学習を行うもので、プールでいったら「半分くらいを目標にするコース」「25mを目標にするコース」「25mのタイムを目標にするコース」とだいたい3コースくらいに分けます。
私は今までいろいろな学年を担任してきて、1年生以外はこのコース別学習を学年で行ってきました。
特別違和感を感じなかったと思います。子どもたちは自分の課題や能力に合わせて学習するので、指導も「しやすい」と思っていました。
しかし、最近「これでいいのか」という思いもよぎるようになりました。
コースは大雑把にわけて3コースに分けていますが、そのコースの中でも子どもたちの課題は違います。
例えば、クロールなのか平泳ぎなのか。
平泳ぎだったら、腕の動きなのか、足なのか、体全体の伸びなのか、一人ひとり課題が違います。
一人で30人近くを見るのであれば、一人ひとりの課題を瞬時に見抜いてアドバイスする必要がありますが、
声をかけるだけですぐに改善するとは思えません。やはり、近くで声をかけて、動作を確認しながら、教えていかないとうまくいかないでしょう。
そんなことを指導しながら感じていました。「一人で、一人一人の課題に合わせた指導をするのは不可能だ」と。そして何より、子どもたち同士の交流がいっさいない。「泳げる子」「少し泳げる子」「泳げない子」のカテゴリにわけて、それぞれの課題への理解や解決もない。『学び合い』を実践している身としては、何のための学校なのか、泳げるようにするための学校なのか・・・と思ってしまいます。
さて、同じように学校では「習熟度別授業」があります。
例えば、学年を3分割して、それぞれの課題や能力に合わせて授業をする、というものです。
これもまた、プールと同じだと思います。
子どもたちの課題や能力は一人一人違うので、それぞれの課題に合わせた学習を数名の教師で行うのははっきり言って無理です。また、子どもたちの中で「格差」がうまれるだけです。もちろん、子どもたちの中にはそんなものはないのかもしれませんが、少なくとも「算数が分からない」という子への関わりが絶たれます。「算数が得意」という子との交流も絶たれます。
私はやはり、公立学校こそいろんな子がいるからいいんだと思います。習熟度別のように区別していけば、学び合う、助け合う必然性がありません。多様な人たちがいる社会に出て行く子どもたちは、学校で過ごす間に、いろんな人がいて、お互いに課題や能力は違って、それを補い合ったり、助け合ったりしていく、という経験をしていくべきだと、思います。
苫野先生のいう
自由の相互承認の実質化ではないかとも思います。
評価
「評価規準を決めて、ご提出ください」
教務から提案があり、学年主任として、作成することになりました。
そこで、現在の通信表の文言と、昨年度の評価規準を参考に作成することにしました。
最初は、「昨年をベースに」と考えていたので、すぐに終わるかな・・・と思っていたのですが、
当たり前のことですが、昨年は昨年の先生たちが作成したものなので、私の考えと違います。
いろいろ読んでいくうちに、思うことがあり(批判になるので、控えます)
ちょっと時間をかけて作成することにしました。
もしかしたら、これは自己満足の世界になるかもしれない・・・という思いもよぎりましたが、
やっぱり、子どもたちをどう育てるか、どんな力をつけるのかっていうのは授業を行う上で教師が考えておかなければいけないことだし、それをきちんと評価することで、子どもたち自身はもちろん、教師も授業や子どもたちへの関わり方を見直すことになるだろう、と思うので時間をかけることにしました。
ある程度作成したところで、これは後輩の先生たちに伝えるべきかな、ということも思いました。
確か、来年から新要領になって評価の観点が「主体的に・・・」
だったので、を以下引用。
中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会 「児童生徒の学習評価の在り方について(報告)」平成31年1月21日
以下抜粋
4「主体的に学習に取り組む態度」の評価について 答申では、「『主体的に学習に取り組む態度』と、資質・能力の柱である『学 びに向かう力・人間性』の関係については、『学びに向かう力・人間性』には1 『主体的に学習に取り組む態度』として観点別評価(学習状況を分析的に捉え る)を通じて見取ることができる部分と、2観点別評価や評定にはなじまず、 こうした評価では示しきれないことから個人内評価(個人のよい点や可能性、 進歩の状況について評価する)を通じて見取る部分があることに留意する必要 がある」とされている。
また、「主体的に学習に取り組む態度」については、挙手の回数やノートの 取り方などの形式的な活動ではなく、児童生徒が「子供たちが自ら学習の目標 を持ち、進め方を見直しながら学習を進め、その過程を評価して新たな学習に つなげるといった、学習に関する自己調整を行いながら、粘り強く知識・技能 を獲得したり思考・判断・表現しようとしたりしているかどうかという、意思 的な側面を捉えて評価することが求められる」とされている。
また、答申において、「このことは現行の『関心・意欲・態度』の観点につい ても同じ趣旨であるが」、上述のような「誤解が払拭しきれていないのではない か、という問題点が長年指摘され現在に至ることから、『関心・意欲・態度』を 改め『主体的に学習に取り組む態度』としたものである」と指摘されている
『学び合い』は「教師が学び続ける営み」とも言えるのでは
今日の西川先生の投稿には、とても刺激を受けました。
以下引用します。
↓↓
https://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/?word=%2A%5B大事なこと%5D
2000年以降、毎年、1冊の本を東洋館出版社で出版していました。その頃には『学び合い』の黎明期でノウハウも整理されていませんでした。さらに、中途半端な知識で実践されるのは嫌だったので、ノウハウは意図的に公開していませんでした。本で出したのは『学び合い』における教師と子どもの姿を丹念に整理した学術研究のダイジェスト版でした。
ノウハウを公開したのは2007年3月のネット本です。最初は受け狙いで「奥義書」というタイトルにしましたが、「手引き書」という名前をつけました。そのときに『学び合い』の基本的な考え方として、子ども観、授業観、学校観を出しました。
しかし、2011年に3つの観を整理して(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20110403/1301787725)、2012年に『学び合い』を新たに再定義を行いました(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20120202)。その中で授業観の重要性は私の中で低下しています。私は2014年以降は授業観に関して発信していません。そして、今は「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という授業観は私の中から消え去りました。
ビックリされることと思います。多くの人にとって、『学び合い』といえば、この授業観で表現された授業だと考えているでしょう。たしかに、同じ基礎的・基本的学力を保証するという工業化社会のコードに基づく現状の学校教育では、そうでしょう。しかし、私の頭の中は脱工業化社会になっているのです。
個別最適化する社会において、一人一人の目標は異なります。当然、評価も異なります。そして、環境すらも異なります。目標を設定し、評価し、環境を整備するのは教師ではなく、学習者当人なのです。では、教師は何をすべきでしょうか?子ども一人一人が、目標を設定し、評価し、環境を整備できるように、今後の社会のヴィジョンを持たせることです。それを全員に保証するには、集団を形成することです。そのためにも、ヴィジョンが必要なのです。
引用おわり
「『学び合い』はこういうものです」
「『学び合い』の授業はこうです」
というものではなくて、
『学び合い』は教師の営みそのものであり、子どもたちの成長過程すべてであるから
「これ」「こう」というものではなく、ゴールもない。
ざっくり「全員達成を目指して課題を解決すること」は『学び合い』だけど、それだけじゃあ、続かない。
どう語るか、どう課題をつくるか、どう子どもたちに態度で示すか・・・その問いの繰り返し。
でもそれは『学び合い』の本体。
そして変わっていく子どもたちの姿も『学び合い』の本体
語ること、課題、態度それらは、実践者同士でにてくることはあっても、同じではない。
それぞれの人間性があり、「ステージ」なるものがあるから。
経験があるからいいからとか、年齢が高い低いではなく、いかに考え続けてきたか、だと思う。
幸い、わたしには目指す人がいる。モデルがある。
そしてそれに近づいていることも実感している。
だから自分はこれからも『学び合い』を続けていくんだ、と思う。
振り返りジャーナルを続けていて
岩瀬直樹さんの「振り返りジャーナル」を続けて2ヶ月ほどがたちました。
「振り返りジャーナル」で子どもとつながるクラス運営 (ナツメ社教育書ブックス) 岩瀬直樹 https://www.amazon.co.jp/dp/4816361871/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_583bDbBEC359J @amazonJPより
最近の子どもたち、時間を確保すれば、1ページまるごと書いてくれます。そこで、今週のお便りに振り返りジャーナルのことをのせようと思い、「ジャーナルを続けてきて、思ったこと・よかったこと・成長したと思うこと」を選んで書いてもらいました。
子どもたちの文をよんでいると「書くことが楽しくなった」「振り返ると面白い」「めんどくさくなくなった」「先生とやりとりが楽しい」「困った時に相談できる」「何を書くか意識しながら生活するようになった」など、なるほどな、と思うものばかりでした。
子どもたちの方が、このジャーナルの取り組みのよさに気づき、表現してくれていました。
これからも続けたいと思います。
お掃除プロ制度
岩瀬直樹さんの実践、「お掃除プロ制度」を追試させて頂くことにしました。
今までやってみたいなあと思っていたのですが、なかなかできなかった実践。
決めたことは
・2期務めること(日直が一周すると、席替えと掃除交代を行う。一周分が1期)
・実技試験と筆記試験を行う
・ABCのランクわけ
C 先生が教えたことができる
B 人に教えることができる
A 他の学年や先生に掃除のことを伝えられる
子どもたちに提案したところ、ひとまず7名が試験を受けることに。
結果は、全員合格!
子どもたち、いきいきとした表情をしていました。
「なにそれ、めんどくさい」とも言わず、一生懸命する姿、嬉しいなと思いました。
お掃除プロ制度、いい感じです。これはこれからの実践にいかせそうだなと思います。
6年前
6年前の2013年6月。
今と同じように5年生を担任していた私は書店で見つけた本で『学び合い』を知り、
ネットブックの『学び合い』の手引書を読んで、『学び合い』を実践してみることにしました。
当時の写真を見ると、板書の写真が多いことから、おそらく一斉授業を基本にして、時折「交流活動」としての「学び合い」を行なっていたようです。そして、『学び合い』の本を読んで「目標を示して子どもに任せてみる」「子どもを信じてみる」「全員達成を目指してみる」などを「実行可能な要素」としてピックアップしてその交流活動に取り入れているような形だったように思います。だから『学び合い』らしきもの、を実践していたと言えるでしょう。
芯のない、中身のない、方法だけの『学び合い』だったとも思います。
それでも、子どもたちはよく学び合っていました。
自分たちで遊びを考え、宿泊学習では自分たちで行動でき、学年の終わりにはいい雰囲気でまとまりました。
私の教師人生でいえば、この1年間の実践は、子どもに任せる授業の第一歩とも言えます。
今の私の実践につながっています。
でも、当時の子どもたちにはそんなこと関係ありません。
「それって『学び合い』?」とも言える『学び合い』でも、子どもたちを育てることができました。
それって『学び合い』のすごいことところなのではないかと思います。
今から『学び合い』をはじめようと思っている方であっても実践してみれば、そのクラスでもすぐに変化がある、と思います。ただ、本は読んだ方がいいでしょうし、本通りにやった方がいいでしょうね。最初は。
私は時間がかかりすぎましたし、運良く続けさせてもらったというのもあります、。
アゲアゲの総合
今日は5年生はじめての総合の授業。
学年の先生にお願いして、カリキュラムを編成し、6月の中旬からスタートできるようにしました。プレゼンソフトを使って、「総合って何?」から、学び方、課題の作り方などを説明。後輩の先生たちや通りかかった先輩の先生も立ち止まって聞いて下さいました。
プレゼンを終えた授業後半、子どもたちは、テーマに対して、どんどんイメージを広げていっていました。ある子は「久しぶりに大西先生のそもそも話を聞いてテンションアゲアゲでした」と。
総合って、使い勝手のいい時間にされたり、毎年決まったカリキュラムをこなすだけだったりすることが多いけど、もっとしっかり取り組むべき学習だと思っています。
そのために何が必要か、というとワクワク感でしょうか。私はこのプレゼンをつくるのも、授業をするのもとてもワクワクしていました。
どんな学習になるのか、とても楽しみです。