おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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話しても伝わらないことがある

誤解を招くような言動をしていたようです。

幸い、とある方が教えてくれました。

 

誤解を与えた方には謝罪をしました。

弁解をしたくもなるけれど、不快な気持ちにさせたのは事実。こういう時は言い訳をせず、謝る、に限ります。

 

ありがたいな、と思ったのは

ある方がわざわざ教えてくれた、ということ。

僕が話をしても聞かない人間なら、放っておかれたでしょう。貴重な機会を一つ得ることができました。

 

それにしても、話をしても伝わらないことってあるんだな、と。話し手が何を求めているのか

冷静に分析できるとだいぶスムーズに生きられそうです。

集団の中で大事になるのは結局・・・

夏頃、精神的に参っている時期がありました。

理由はハッキリしているのですが、ここでは詳しくは触れません。

 

根本的な解決には、職場を変えるしかないので、

考え方や行動を変えることで対応することにしました。

 

時間はかかりましたが、精神的には調子を取り戻しました。

根本解決にはならずとも、自分の考え方や行動を変えることで問題を薄くすることが

できたのはよかったと思います。

 

ただ、それ以降も気になる事案がいくつか起こるたびに

精神的な乱れが起き、ついには感情的になってしまうことがありました。

 

これは周りに影響を及ぼすことになってしまいました。とても反省しました。

ただ、功を奏したのが「なんか、あいつ困っているぞ」という認識を周りが持ったことです。

 

そして最近になって急に周りが理解を示してくれました。

ある出来事がきっかけでした。

「大変だったね、そりゃストレスたまるよ」と声をかけてもらいました。

もうすでに、対応の仕方には慣れていたし、感情的にならないようにしていたので、

そんなに困ってはいませんでしたが、周りが理解をしれくたことで

「スッキリ」しました。

 

このように周りが理解してくれたこと、一度だけ感情的になっても「なんかあいつ困っているぞ」と思われたことは、日々の僕の言動の影響ではないかと思います。もし僕が周りから非難されても当然の言動をしていたら誰も理解もしてくれないし、感情的になった時「なにやってんだあいつ」と呆れられていたでしょう。

 

話を聞く

挨拶をする

人を悪く言わない

手伝いを率先してする

 

このような行動だけでなく、

 

仕事の期限を守る

目の前の仕事(勉強)に対して努力する

 

ことも肝心だと思います。

 

もちろん、いつもこんなに理解をしてもらうことばかりではないです。

今回は運がいいというか、周りの方が素晴らしい方ばかりだからだと思います。

似たようなことがあった時に、相談をしても、向き合ってもらないこともありました。

 

 

いずれにしても「スッキリ」すれば、あとは自信を持って仕事をするだけです。

今まで気になっていたこともすべて流せます。「あーあ、またやっているよ」と言えます。

 

 

それにしても、どうして期限を守らないことを何とも思わなかったり、

仕事をしていないのに、人に偉そうな態度が取れるのでしょう。

僕には全く理解できません。

でも、世の中には僕には全く理解できない人もいるのは当然だし、

そのような方とも折り合いをつけていく必要はこれからもあるんだと思います。

 

 

さあ、残りあと少し、頑張るぞ。

 

 

学習会サークルを作りたい

学習会サークルを新たに作りたいな、と思っています。

今まで『学び合い』関連のセミナーや学習会を開催し、福岡『学び合い』を学び合う会も

続けてきましたが、しばらく活動は控えています。

 

というのも

 

・「学び合う」という言葉が今は「関わり合う」=「密」という印象を持たれやすく、堂々と実践できない

・『学び合い』が認知されてきたのはいいけれど、表面的な捉えられ方をしてしまう

・本拠地に集まれない

 

 

というネガティブ要素があるからです。

 

でも、

 

・対話を通して自分の課題を解決したり、多様なつながりを得たりできる

・様々な分野を学び続ける

・地元の教育・授業をよりよくできる

 

このようなことを求める教師たちのリアルな集まりは必要だと感じています。

 

 

教師不足だったり、若い先生が学ぶ場が職員室になかったり、教育現場に求められていることが多種多様だったり、課題はたくさんあると思います。そんな課題を持ち寄ってみんなで考えていこうや、という会。実際には『学び合い』を学び合う会でやっていたことを、「『学び合い』という看板を外して」やってみたいなと思っています。

 

ひとまず、今度声をかけて集めてみようと思います。

ああ、こういう時こそビジョンとパーパスが必要なのね。

 

 

 

周りが教えてくれる時代じゃない

他人への評価は的確で冷酷だと感じることがある。

 

「あの人はーだから、相手にしない方がいいよ」

「ーと思うけど、言っても変わらないから言わない方がいいよ」

「○○さん?放っておけ」

 

こんな評価を受けている人は、自分がどう評価されているか何も知らない方がいい。

でも、ちょっとしたことを変えればその評価が変わるのに、それを知らないまま、気づかないまま、何年も何年も過ごしているんだと思うと不憫に思う。

 

例えば、よく悪口を言う人。

普通に付き合っていれば、そんなに悪い人じゃないのに、悪口が多いと付き合いたくなくなる。「あの人、あんなこと言ってるけど、意外といい人だよ」と思われた方がいいに決まっているのに、それができなくて「あの人、いっつも悪口言ってるよ。それ以前に自分のことを見直せばいいのに」なんて思われてしまう。ちょっとしたことの違いなのに、評価が大きく変わってしまう。

 

時間を守らない

期限を守らない

愚痴が多い

自慢話が多い

 

こういう人も、あまりいい評価はされず、距離を置かれたり、放置されたりすることがある。

でも、本人は気づいていない。「こんな簡単なことで、この評価を受けるくらいなら、直せばいいのに」と可哀想に思う。

 

とはいえ、結局は本人が気づかないと変わらない。

パワハラとかモラハラとかが取り出さされて、他人が他人の言動を変えようとすることは

控えるようになった。だから本人が気づくしかない。本人に「気づく能力」があるかどうかがこれから先、重要になるのではないか。

 

そして、「気づく能力」は

習慣で身につくものなのか。

経験で身につくものなのか。

はっきりとした答えは分からないけれど、

一つ言えることは、多様なつながりを作ることではないか、と思います。

もしかしたら、自分にきっかけを与えてくれるかもしれないし、

気づかせてくれるかもしれない。

自分で気づくか、他人が気づかせてくれるか分からないけど、

同じ場所で変わらぬ人間関係なら、その可能性は少なくなる。

 

他人の評価がすべてではないけれど、少しでも他人の評価をよくするために

「気づく能力」はつけたほうがいい、ということを感じた日でした。

 

 

職員室と教室

私は校長でもないし、校長の経験があるわけでもないので、はっきりとしたことは分かりませんが、校長次第で職員室の雰囲気は大きく変わると思います。

 

ちょうど学級担任が学級の雰囲気を決めるかのように。

 

職員室の先生たちは、校長の言動を見ていると思います。

 

「気持ちをこめて話しているわけではない」

「自分の保身のためにやってるな」

「なんか嘘っぽい」

 

そんなことを感じるようになったら、校長に対する信頼はどんどん下がり、職員室内の雰囲気は悪くなってきます。

 

また、職員室内の雰囲気を察することができず、肝心なところにテコ入れできなければ、

職員室の人間関係はどんどん悪くなっていくはずです。

 

もちろん自分は校長でもなければ、校長の経験もないので分かりませんが、何ができるのか、と考えても微々たることしかできません。

 

ただ、教室に学級の雰囲気を変える子がいるのと同じように、職員室の雰囲気を変えられる人はいます。私は今までそういう方に何度か会ってきました。

 

私がそういう人になれるか、といえば難しいとは思いますが、少しでもできることをしたい、と思うと同時に、やっぱり校長次第だよな、とも思います。

 

いつか気概のある校長に仕えてみたいなあ。

教師としてのこだわりを捨てること

中学校の先生方の話を聞く機会がありました。

話を聞く中で、小学校教員の自分には興味深い点がありました。

 

「○○科(教科名)はーーーが大事だと考えています」

「△△科の学びはーーーとすることが多いです」

 

と各教科の「学ぶべきこと」や、「学び方」をまず話す方が多かったです。

教科担当制の中学校だから当然といえば当然ですが、小学校ではそんなに聞く言葉では

なかったので、「中学校ではそう言うのか」と思いました。きっと中学校での「共通言語」なんだろうな、と思います。

 

もちろん、小学校でも各教科の「専門」と言われる方がいて、その方々は「◯◯ではー」という言い方をすることもあるので、皆無ではないのですが少ないように思います。

 

さて、その「◯◯科はー」に対して講師の先生は何と言ったかというと次のような趣旨でした。

 

「○○科(教科名)はーーーが大事だとおっしゃっていましたが、それってすべての子にとって必要ですか」

「△△科の学びはーーーとおっしゃっていますが、先生が受験勉強の時にそのような方法を強いられたらやりにくくなかったですか」

 

子どもが関心を抱く学習内容や、子どもに合った学習方法は、子ども自身しか分からないのであって、子どもが見つけ出すしかない。教師がそれを強制した途端、意欲も質も落ちるということなんだろうと思いますが、

 

この言葉を聞いた先生たちは果たして納得できたのだろうか、と思いました。

 

なぜなら、多くの教師は「教科ならではを教えたい」「子どもが分かるようにしたい」と願っていると思うからです。「これこそ教師の仕事」「自分の生きがい・やりがい」と感じている部分でもあるのではないか、と思います。だからそれが、一部の子どもたちに興味のないことを聞かせることにつながったり、必要以上に詳しい学習プリントを作成することになるとは思いたくないと思います。

 

僕自身も、『学び合い』を実践し、『学び合い』関連の本を読みながらも「教科ならではを教えたい」「子どもが分かるようにしたい」という気持ちを持っていました。だから、講師の先生が言うことにすぐに納得できないだろうな、と思いました。もちろん、講師の先生も「お気持ちはわかります」と何度も言っていました。でも、あえて上記のことを言い続けていました。きっと、この件については納得してもらおうと思っていないと思います。

 

ただ僕は、ある出来事をきっかけにその「教科ならではを教えたい」「自分の指導で子どもが分かるようにしたい」という考えを捨てることになります。そして「教科の見方・考え方」「教科の本質」「教科の特性」とかいう言葉に惑わされないようになりました。教科によって学ぶことや学び方は違うのは承知しつつも、基本的には「全員がわかる」を求め、テストの点数をあげる、これを優先しました。時々「教えたい」という気持ちが出てくるのを自覚しつつ、あえてそれを捨てる。慣れてくれば大したことないのですが、時々上記のようなやりとりを見聞きすると「ああやっぱりそこは難しいんだな」と思わされます。

 

 

『学び合い』を実践し、自分の考え方を変えていくのは、難儀です。

特に「教師はーあるべき」の話は特に難しい、そう思います。

だから、焦らなくていい。じっくり実践を積み重ねながら、子どもの学びを主におきながら

気づいていけばいいと思います。

今、私にできること

先日、後輩の先生と話をしていこと。

 

今は『学び合い』を進める時ではない。

 

と。確かにそうだな、と思います。

例外はあります。

 

校長が認める時

 

です。

というのも「学び合い」という言葉がよくない。

「話し合い」「交流」「教え合い」を想像させるし、

実際の授業場面を見たら、子どもたちはウロウロしている

ただでさえ「密を防ぐ」「飛沫防止」が求められている状態で、

『学び合い』をします と宣言するのは、得策ではないと思う。

保護者につっこまれ、管理職に「やめろ」と言われたら何もできなくなる。

 

現実は、子どもたちが学校に来ている以上、密になるし、飛沫はとばすし、接触もある。授業中の接触を減らすことは、100の感染リスクが99になるくらいでしかないのに、それを求められる。

 

学校以外にも形骸化されている感染対策はたくさん残っていて、優先順位考えればやめたらいいのに、ってものはいっぱいあるけど、結局誰もやめることができない。

責任をとれないから。だから『学び合い』を堂々と実践するには学校の中で責任を取る立場の人=校長が認めないと自由にはできないと思います。

 

では、そのような状況の中でどう『学び合い』を実践していくか。

『学び合い』の「関わる」部分を表向きにせず、その他の面を強調していくことが

大事なのではないかと思います。例えば「子どもを信じて、任せる」です。

 

つづきはまた今度

シンプルな願い

 

 

ちょうど一年前の記事

 

自分が何がしたいかといえば、『学び合い』がしたい。それも、学年で一緒にとか、校内で何人かと一緒、とか。(ずっと一人ぼっちだったし、今年は休止中)別にみんなが『学び合い』じゃなくてもいいや。やっていることは違っても、子どもの幸せを願って、どうすればよりよい教育ができるか、どんな授業だったらいいか、とか日々語れるだけでもいいのかも。もちろん良いことばかりじゃないから、一緒に悩んで考えて、時々一緒に愚痴ることだってある。でも、最後は「がんばったね、ははは」と笑えたらいい。欲を言えば「こんな授業やってみたよ」「こんなこと行事をしてみたい」という声が聞こえてきたり「すごいよ、これ」という自慢や「おおー、すごいすごい」という声が聞こえてきたらいい。困ったことあったら誰かが声をかけて「一緒に飯でも食いにいくか」って言えたらいい。あれ、書いていたら最初に書いたことと違うぞ・・・そうか『学び合い』じゃなくてもいいんだ。でも『学び合い』だったらそうなりそうな気がするんだよ。教室も職員室も。だから『学び合い』がしたい。あれ、これって何か理想像すぎる?いやでも、何年か前にこれに近いのを何回か見たことがあるよ。でも今は・・・やっぱり、変わっちゃったんだ。何もかも。

 

 

そんなに多くを望んでいない。

そんなに大きなことを望んでいない。

毎日、教室で、職員室での生活が充実していればいい。

『学び合い』がいいと思うけど、そうでなくてもいい。

誤解を恐れるから言いますが

僕は『学び合い』実践者です。

 

という言い方、なんかカミングアウトみたいで勇気がいります。

いや、正直なところ「『学び合い』やってます」でも「『学び合い』実践しています」でも「『学び合い』実践者です」でも、どう表現しようが、『学び合い』という単語を使って自分を紹介することに若干の抵抗感があります。

 

なぜなら『学び合い』という単語には、提唱者の先生の顔がチラついたり、子どもたちがごちゃごちゃやってる姿が想像されたり、よくわからないグループ・集団だったりが彷彿されるのを知っているからです。

 

だから、誤解されることもある、と思っています。そして、恐れてもいます。

『学び合い』という単語によって、僕が願ってきたことが捻じ曲げられてしまうことを。

 

そのような経緯からなるべく僕は『学び合い』という単語を出さずに、自分の願いを言葉にすることを心がけてきました。今、一番しっくりきているのが「学校教育をよりよくしたい」です。もう少し細かく言えば「子どもたちが学び・人生をよりよくできるようにしたい」です。

 

また、「子どもたち」と言うのは、自分が学級担任なら「教室の子どもたち全員」を指します。何人かだけの学びがよりよくなるようなものでないし、8割の子がよくて2割がよくないというものでもなく、「全員」です。これを目指す上で最もベターなのが『学び合い』だった、いうことです。

 

では次はなぜ『学び合い』が最もベターだと思うようになったのか。

それについて書きたいと思います。

よりよい職員室をつくるために何ができるだろう

職員室は、子どもたちにとっての教室と同じ。

教職員にとって、職員室が居心地のよい場所でなければ、日々の業務に支障が出ると思います。そして、支障が出るってことは、結局子どもたちに影響を及ぼす。だから、よりよい職員室をつくることは、子どもたちにとってのよりよい教室づくりでもあり、学校づくりでもある、と思います。

 

では、よりよい職員室をつくるために何ができるか。いくつか挙げたいと思います。

 

 

掃除して整理整頓する

 

すぐにできることであり、効果の大きいことだと思います。

コンセント周り、ゴミ箱まわり、水回り、ロッカー

荷物や不要なものが散乱していたり、捨てられないままでいたら、

どんどん汚れて誰も手をつけなくなります。

「みんなで整理整頓する、掃除する」という意識があれば

職員室の状態は維持されます。

「当番だからする」ではなく、自分から進んで職員室の環境を整えられる集団を

作っていくことが肝心だと思います。

 

 

愚痴は言っても悪口は続けない

 

教師をしていたら、いろんなことがある。愚痴りたいこともあると思います。

愚痴ることで、気持ちを切り替えて次の日頑張れたらそれでいいと思いますが、

悪口を続けてもいいことはありません。

悪口を言うのが当たり前の環境では、弱い人、浮いてしまう人が悪口のターゲットになり、それがいつか自分の番になります。自分の話していることが、職員室にどのような影響を与えるのか、考えられないといけないと思います。

悪口を言いたいなら、家に帰って全然関係のない人に話すか、寝て忘れるのみです。

 

 

子どもの成長を喜ぶ

 

教師の醍醐味・・・いろいろあると思いますが、ある子が何かできるようになった時、

ある子がニコニコと学校生活を過ごすようになった時、ある子が何かを頑張るようになった時・・・それは多くの教師の喜びではないかと思います。

自分たちの仕事の醍醐味、魅力を語り合うことは、プラスのエネルギーになるはずです

そういう職員室なら、どんなに嫌なことがあっても前向きになれるのではないでしょうか。

 

 

若い先生がイキイキしている

「若者はもっと動いて、働け」

なんてことを先輩から言われたことがある方も多いのではないかと思います。

そんなことを言っている人こそ、若い時どうだったか聞いてみたいものです。

そして、若者を締め付ける職員室は息苦しいものです。

上の言葉はネガティブな意味合いで使われることも多いですが、私はポジティブに

「若者はもっと動いて、働け」と思います。

若いというのは、エネルギーがあります。何かやってみよう、とか子どもと思いっきり楽しもうとか、ちょっとこだわってみよう、とかできる時期です。そのエネルギーは、職員室内を活性化させます。もちろん、ハメをはずしすぎるのはダメです。職員室はみんなの場所。

ほどよく盛り上がり、イキイキと仕事する。そういう若者たちがいる職員室をつくるには、

先輩が若者をほどよく自由にすることではないか、と思います。

 

 

敬意と礼儀、時間を守る

 

「社会人の常識」なんて言いますが、教員は学校が社会で、職員室が社会です。

だから「社会人の常識」なんてものは決められたものではありません。

ただ、どんな職業であっても、守るべきことは挨拶とか礼儀とか、時間(期限)ではないかと思います。これは子どもたちに指導する立場である以上、自分たちも守るべきことでもあります。そして、これが緩くなると、すべてが緩くなるように思います。親しき中にも礼儀あり。

「おはようございます」「お先に失礼します」は当然のこと、

「何かできることはありますか」「すみません」が言えればなおよい。

先輩後輩限らず、お互いに敬意をもち、外部の人間には礼儀を忘れない。

会議の時間は守り、提出書類の期限は守る。

当たり前のように思いますが、「忙しい」と言っていい加減になっていること。

これは最低限、守りたいものです。

 

 

まとめ

さて、今回は「よりよい職員室をつくるためにできること」を書いてみました。

 

・掃除して整理整頓する

・愚痴を言っても悪口は続けない

・子どものの成長を喜ぶ

・若い先生がイキイキしている

・敬意と礼儀、時間を守る

 

そんなに難しいことではないと思います。

私も次に学校に戻った時に心がけてみたいものです。